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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第14回 米国留学(その四)

堀紘一さんという人は、ボストン・コンサルティング・グループの日本社の社長を長く勤め、その後ドリーム・インキュベータという名の新しいコンサルティングの会社を立ち上げ、マスコミでもしきりに活躍している著名なビジネス・コンサルタントなので、皆さんの中にも名前を聞いたことのある人が多いでしょう。先頃久しぶりに会っていろいろ話をしていたところ、それぞれの留学体験の話になりました。堀さんは1980年前後にハーバード・ビジネス・スクールで学んだのですが、留学してよかったことを一言にまとめれば、異文化に触れたことだ、と言い、私は成程そうだと感心しました。

しかし、私の場合は今だからこそそんなことを言えるので、1961年9月に始まったロー・スクールでの毎日は、全く余裕のない苦しい日々でした。原因は一にも二にも英語の力の弱さです。教室で教授の講義を聞いても解らないことが沢山ある。学生の発言は先ず全く聞き取れない。読むのが遅いからアサインメントは常に読み切れない。従って教室でのやりとりは一層解らない。発言することなど思いもよらない。といった有様で、劣等生とはこういうものかと、屈辱を味わう毎日でした。(それに較べると、後年私達の事務所から留学した人達の英語力は格段に向上していて、喜ばしいことです。)いずれにしても、そのような状態を続けていては精神的におかしくなってしまうと心配になり、思い切って土曜日の午後(当時は土曜日の午前中は講義がありました。証券法で大変著名なルイ・ロス教授は、ハーバード・ロー・スクールは土曜日を全休にした時から堕落した、と亡くなるまで始終嘆いておられました。)から日曜日の昼食を済ませるまでは、一切勉強しないことにしました。そして、土曜日の午後と夜は、パーティに招かれれば必ず出かけ、パーティのない日は映画を観に行ったり、友人と安いレストランで食事をしたり、東京に残してきた家族に手紙を書いたりして過ごし、日曜日の朝は必ず教会に行きました。教会は、ボストン・コモンという公園の隣にあるパーク・ストリート・チャーチという名のコングリゲーション派の教会で、田辺公二判事の薦めに従ったのです。牧師はオッケンガーという大変な雄弁家でした。1年間毎日曜熱心に通い、キリスト教についての理解は進みましたが、オッケンガー牧師の説教は徹底したファンダメンタリストのもので、段々心が離れて行きました。

このようにして日を重ねていましたが、楽しみが全くなかったわけでは勿論ありません。最大の楽しみは家内からの手紙でした。その頃は航空郵便の切手代を節約するため、封緘葉書と呼んでいたように思いますが、一枚の紙を折りたたんで出す様式のものがあり、家内はその紙面一杯を使ってせっせと事細かに便りを寄越してくれました。料金の高い国際電話をかけることなど、思いもよらない時代でした。また田辺公二判事は、非常に御多忙だったのに、同じく封緘葉書で10数通の便りを下さり、絶えず励まして下さいました。

もう一つの楽しみは、親しいアメリカ人の友人が何人もできて、彼等と食堂やアパートや寮で四方山話をするようになりました。そのうちの何人かは、40年経った今でも親しく行き来していますが、とりわけその中で、J.スピード・キャロルというテキサス出身の3年生は私のホスト・ステューデントで一番親しくなりました。彼は私より丁度10才若かったのですが、テキサス大学卒業後2年間海軍のオフィサーを務め、結婚もしており、実にmatureで落ち着いた思慮深い人物で、しかも異文化、特に発展途上国の文化に深い興味と関心を抱いていました。その時は未だ気付いていませんでしたが、スピード・キャロルに会ったことは、私にとっても旧N&Oにとっても運命的なものでした。後に書くことになりますが、彼は1964年から1年間、勤務先のクリアリー・ゴットリーブ法律事務所から休暇をもらい、旧N&O(当時は所沢・長島法律事務所)の第一号のスタジエール(短期雇用の外国人弁護士を旧N&Oではそう呼んでいました。クリアリー・ゴットリーブでの呼び方をそのまま採り入れたのです。)として、旧N&Oが渉外分野に出て行く上で、かけがえのない大きな貢献をしてくれたのです。

[2002年2月執筆]
(つづく)