1961年8月末に日本を出て米国へ出発した私が、帰国して所沢・長島法律事務所へ戻ったのは、1964年7月でした。はじめ1年間の留学の心算が、3年にもなってしまったのは、私の留学によって大野さん、福井さんをはじめとして同僚の皆さんに多大の負担をかけていることが痛い程解っていて、それに報いるためにはそれまでは事務所になかった渉外の仕事を帰国後起ち上げる外ないという想いが時と共に強まり、そのためには今のまま帰国したのでは力不足でとても自信を持てない、ということのためでした。とりわけ、ロー・スクールで勉強しただけでは覚束ないので、何とか米国のロー・ファームで働かせてもらってそこでの実務について見聞を広めることが必須と思ったのです。しかし、その機会はなかなか得られませんでした。同じ研修所のプログラムで私より1年先にハーバード・ロー・スクールに行った研修所4期の久保田穣弁護士(帰国後、著名な特許専門の弁護士になって今も活躍中です。)は、ハーバード・ロー・スクールでLL.M.の課程を終えた後、当時彼が所属していた湯浅特許法律事務所と提携関係に入ったばかりのベーカー・マッケンジーのシカゴ事務所で4ヶ月程の実習をして帰国されましたが、私達の所沢・長島法律事務所にはそのような米国での提携先など勿論ありません。ロー・スクールのアメリカ人の友人達もいろいろ心配してくれて、あちこち日本に関心のありそうなロー・ファームに当ってくれましたが、稔りはありませんでした。とりわけ、その中の Davis Polk で、日本関係の仕事をしているというパートナーから、「EECの加盟国の弁護士なら是非雇いたいが、日本ではね。」と言われたことは、今もはっきり覚えています。母国の国力が弁護士の活動範囲を規定するのだ、ということを嫌という程、思い知らされました。また、日本の旧友から紹介されたFord財団のある理事が親切にもIRSの長官に紹介してくれたので、ワシントンD.C.まで出かけてみましたが、米国の国籍がなければ駄目ということでした。
もうすっかり諦めて帰国の支度を始めようとしていたところに、Hale & Dorr というボストンの最大(といっても当時は弁護士数60人位)のロー・ファームのマネージング・パートナーから電話があり、サマー・クラークとして採用すると報せて来てくれました。そのときの嬉しさは到底忘れることができません。夏の間だけであるとはいえ、またニューヨークではなくボストンであるとはいえ、米国のロー・ファームで働かせてもらえる幸運に心が踊りました。早速翌日からボストン市の State Street という中心街の Hale & Dorr への通勤が始まりました。サマー・クラークは米国人4人、アルゼンチン人1人と日本人の私の合計6人でした。一日中図書室の中の与えられた机で、パートナーやアソシエイトから次々に要求された調べものをし、メモランダムにまとめて提出するという毎日でしたが、6人は頗る仲が良く、昼食時は近くでサブマリンという潜水艦型のサンドイッチを買って一緒に食べながら、聞きかじったファームの中のゴシップに花を咲かせたりしました。定時出勤定時退勤で週給は80ドル。それで私達家族4人は十分暮らして行けましたし、事務所の弁護士も職員もサマー・クラークに対して大変親切で、実に居心地のよい職場でした。面白いことに、月に2回位全弁護士の情報伝達ミーティングがあって、サマー・クラークもそれに出るように言われ、出席すると何もしないのに10ドルの出席奨励金をくれるのです。皆大喜びで必ず出席しましたが、何が話し合われていたか、今では何一つ思い出せず、10ドル紙幣を貰う嬉しさだけが記憶に残っています。この Hale & Dorr には当時 Reginald Smith というロー・ファームの組織・運営についていろいろ書いていた有名なパートナーがいました。所沢・長島法律事務所にとっては大変関心があることなので、熱心な大野さんがその一つを和訳してそれがある法律雑誌に載りました。 Hale & Dorr は今でもボストンで最大のファームであり、古い連中とは今も親しくしています。また、1990年にボストンの Goodwin Proctor というファームから Baker という優秀な不動産専門の若い弁護士がスタジエールとして旧N&Oに来て、特に原さんの片腕となって大活躍しましたが、それは上記の6人のサマー・クラークのうちの一人が後に Goodwin Proctor のパートナーとなって Baker さんを派遣してくれたお蔭でした。
さて、サマー・クラークとして毎日を実に愉快に送っていたところ、以前に面接を受けはしたものの返事がないまますっかり諦めていた Milbank Tweed Steen & Hamilton というウォール・ストリートのロー・ファームから思いがけなくも foreign associate として採用するとの電話の報せがありました。そのときの喜びも私は終生忘れないでしょう。その短い電話の主の Michael Orr という若いパートナー(後に親しい友人となりました。)の一言一言が今もはっきり耳に残っています。
[2002年5月執筆]
(つづく)