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長島・大野・常松法律事務所は、国内外での豊富な経験・実績を有する日本有数の総合法律事務所です。 企業が直面する様々な法律問題に対処するため、複数の弁護士が協力して質の高いサービスを提供することを基本理念としています。

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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第21回 渉外事務所へ(つづき)

前回に書いたように、所沢・長島法律事務所は、それこそ「あっ」という間に国産の渉外事務所としてかなり知られるようになりました。日本経済の高度成長と国際化が力強く始まった時期、渉外弁護士のサービスに対する需要が急速に増加したことがよくわかります。故田辺公二判事の狙い、即ち日本の渉外法律事務が外国人弁護士(中でも米国人弁護士)に独占されているという不健全な状況を、日本人の弁護士を留学させ、力をつけさせることにより打開しようという狙いは、小さいながらも早くも実を結び始めたのでした。

所沢・長島法律事務所では、労働関係の仕事は従来通り一つの柱としつつ、渉外事務所としての体制を確立し拡充するため、いろいろな方策を講じました。私が帰国して渉外の仕事を始めたのは1964年の夏ですが、その時には既に穂積さんはコロンビア・ロー・スクールに留学するために出発していました。そして翌1965年の4月には、研修所の研修を終えた外山さん、石沢さん、三笠さんの3人をアソシエイトとして一度に採用したこと、またその年の秋コロンビアでの修士課程を終えた穂積さんがStitt & Hemmendingerという日本鉄鋼輸出組合のcounselの事務所で研修を始めたことは、既に書きました。その年には、また、アソシエイトの山崎行造さんがテキサス州ダラスのサザン・メソジスト・ユニバーシティ・ロー・スクールに留学するために出発しました。(このロー・スクールも故田辺判事の御盡力で研修所出身の判事補・弁護士に奨学金を出してくれるようになっていたのです。)そして翌1966年4月には、中村誠一さんをアソシエイトとして採用しました。やはり渉外希望ということでした。加えてその年、穂積さんが帰国して実務に復帰し、さらに夏には大野さんが、ルイジアナ州のチューレイン・ユニバーシティ・ロー・スクールに留学するために出発しました。そして、その秋から、サザン・メソジスト・ユニバーシティ・ロー・スクールの修士課程を終えた山崎さんは、当時のニューヨークの大型法律事務所の一つであったKaye Scholerでの実務修習を始めました。このロー・ファームのパートナーのHandler氏はコロンビア・ロー・スクールの著名な独占法の教授で、Kaye Scholerはとりわけ独占法に強い事務所としてよく知られていました。このKaye Scholerを知ったのは、私がMilbank Tweedで実習していた時です。Kaye Scholerが日本電気(今のNEC)の米国での輸入業者を代理して日本電気に対し米国独禁法違反の訴を起こし、当時ニューヨークに留学中の沢田幸夫さん(後に上智大学教授)に相談した結果、私にも助力を頼むということになり、Kaye Scholerの担当パートナーと共に日本に出張して日本電気と和解交渉をしたことによります。和解はKaye Scholerのクライアントにとって満足すべきものであったこともあり、Kaye Scholerは日本に関心を抱くようになって、翌年、ハーバード・ロー・スクールで修士課程を終えた尾崎行信さん(後の最高裁判事)をforeign associateとして採用してくれ、次の年には山崎さんを採用してくれたのです。(しかし、こちらから仕事を紹介して上げることができなかったこともあり、Kaye Scholerは山崎さんのあともう一人日本人の弁護士をforeign associateとして採用したのを最後に、その後は長い間、日本に興味を失ったようでした。)

翌1967年にチューレインでの修士課程を終えた大野さんは、その年の秋からウィスコンシン州ミルウォーキーにあるFoley & Lardnerという中西部では名の通った名門の法律事務所での実習を開始しました。これは前に書いたことのあるJimmy JohnsonというCleary Gottliebのパートナーが世話をして下さったのです。本当にJohnsonさんは私達によくして下さいました。

以上のように、米国のロー・スクールのマスター・プログラムで勉強し、その後現地の法律事務所で実習するという、その後日本の渉外事務所では決まり切った型になった留学を、旧N&Oは非常に早い時期から毎年人を送り出して、今から思えば小型ながらも着実に且つ急速に実行し、渉外事務所としての人材の養成と蓄積に精力的に努めたのです。(山崎さんは帰国後旧N&Oに戻って御本人の希望もあり特許に専門化して行き、やがて虎屋ビルの一つのフロアの三分の一を特許部門専用スペースとして、主に内外での特許・商標申請の仕事を熱心に遂行されました。ただ、私達はやがて特許申請の仕事が旧N&Oの他の仕事と大変異質であることに気付くようになり、問題が出て来ました。例えば、外国での特許申請につきものの翻訳の仕事が膨大で、外注先の人々の出入りが激しく、また申請期日に常に追われていて年中騒がしく慌しいということなどで、一つの事務所で一緒に仕事をするのは無理だと感ずる弁護士が増えて来たのです。そのため、山崎さんとよく話し合い、独立に当っての相応の支援も旧N&Oが行い、山崎さんは円満に旧N&Oを退職し、平河町に山崎行造特許法律事務所を開き、着実にその規模を拡大し、今もなお元気に活躍しておられます。旧N&Oとの関係もよく、例えば福井さんが富士山などの崩壊を防ぐための特許は、山崎行造事務所が代理人となって、日本をはじめいくつかの外国で取得したのです。)

渉外事務所としての充実は、弁護士の充実だけでは勿論足らず、職員の充実が伴わなければなりません。セクレタリーについていえば、津田塾大学の卒業生の採用を始めたところ、大学側でも大変熱心に旧N&Oを学生に紹介してくれるようになり、また入ってきた人達の中に英語に強く且つ優秀な人が多く、そのうちに津田出身者がセクレタリーの中で一大勢力を占めるようになりました。(尤も、私のセクレタリーは伊藤新子さんの次は高山睦子さんという都立大学卒の人でした。高山さんは数年間在職しましたが、その間に当時プリンストン大学の学生だったRobert McIlroyさんが旧N&Oに実習に来て、何年か後に二人が結婚されました。McIlroyさんが旧N&Oに実習に来た経由は、McIlroyさんが属していたルーテル教会から日本での経験のために学生である彼を日本に派遣し、McIlroyさんが国産の渉外事務所としてかなり知られるようになっていた旧N&Oで働きたいと申し込んで来たのです。McIlroyさんはその頃からすでに相当な日本語の力があり、それは当時では珍しいことでした。彼はその後米国に帰って弁護士事務所で働いたり、公認会計士の資格を取得したり、多方面で活躍した後再び日本に来て青山学院の教授をかなり長い期間勤め、今年からは慶應大学に移り、来年4月に設立される同大学のロー・スクールの教授になることになっているそうです。)

さらにスタジエールについても、前回に書いたスタンフォード・ロー・スクール出のNebrigさんのあとにはハーバード・ロー・スクール出のDodgeさんを採用しました。(このDodgeさんは、戦後の占領時代に連合国総司令部の要請を受け、日本国の財政建て直しのためにやってきたデトロイトの銀行家Dodge氏の孫でした。"Dodge Line"と言って、敗戦後の財政再建の道筋をつけたことで知られています。スタジエールとして旧N&Oに来た孫は、祖父の影響を受けたのか税法に興味を持っており、その後テキサス大学の税法の教授になりました。)そしてその後も旧N&Oでは原則として2年契約で途切れることなくスタジエールを置いてきました。これも今ではあまりに当然のことと考えられていますが、当時はアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ(現在のアンダーソン・毛利)のような若干の米国人弁護士事務所を除いては稀なことでした。

振り返ってみると、このように当初からいろいろな面で投資を積極的に続けたことが、外国人弁護士事務所に比べれば10数年も後発であった旧N&Oが、渉外事務所として広く認められるようになった原動力の一つであったのでしょう。

そして1967年、旧N&Oが渉外事務所として飛躍的に知られる原因となった東京ヒルトンホテル事件が起こったのです。

[2003年6月執筆]
(つづく)