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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第24回 東京ヒルトン事件(その三)

いよいよ東京地裁民事第9部で、双方からの仮処分申請について審尋が行われる日が来ました。私達ヒルトン側からは、N&Oの長島・福井・穂積・中村の4名とブレークモア・三ツ木のブレークモア・三ツ木・田中・牧野の各氏が出頭しました。東急側からは、東急の顧問弁護士と思われる花岡・田宮・向山氏等の外に、渉外事件ということで加わったらしい某弁護士(海商法専門とのことでした。)が出頭しました。担当裁判官は長井・北沢・山口の3氏でした。審尋は法廷で行われました。

審尋が始まって間もなく、その某弁護士が立ち上がり、私達を若僧(私はそのとき40才でした。)と見くびったような傲慢な態度で、外国企業を代理する私たちが日本の国益に反することをしているという意味にとれることを声高に言いました。私は、何ということを言うのだろうと呆れ、反論すべく立ち上がろうとしたのですが、一瞬早く福井さんが立ち上がって、激しい勢いで、某弁護士の発言が如何に不当なものであるかを詰りました。その間のよさに、私は、「福井さんは生まれながらの訴訟弁護士だな。」と感心したことでした。

そのことを除いては、法廷でのやりとりについて特筆すべきことはなく審尋は終結し、あとは裁判所による決定を待つばかりとなりましたが、決定が何時出るかは、全く解かりません。ヒルトンの副社長ウィルナー氏は、決定が出るまでは出張を延ばして東京に滞在し続けるといい、毎日虎屋ビルのN&Oに"出勤"してきますが、裁判所の決定を待つ一日一日が、ヒルトンにとってはビジネス上の不利益と不安を増して行くのでした。とりわけ、東京ヒルトンホテルの従業員の中には、ヒルトンに忠誠を誓う人達が相当数いて、その人達は東急の指揮・命令に従わず、ヒルトンが東京ヒルトンホテルに復帰するのを無収入で待っているのですが、それには当然限界があります。仮処分でヒルトンが勝っても、それまでには待ち切れずに他のホテルに転職してしまうかも知れません。そうなってしまうと、ヒルトンが復帰しても、以前のようなよいサービスを顧客に提供できなくなってしまいます。また、東急による"占領"期間が長引けば長引く程、一般の従業員の心がヒルトンから離れて行くのも人情でしょう。「裁判所からまだ電話はありませんか?」とウィルナー氏が焦って、一日に何回も尋ねます。毎日がその繰り返しでした。

そして5月12日、遂に電話が鳴りました。「決定が出ましたから取りに来て下さい。」という裁判所の書記官からの電話でした。私達はすぐにウィルナー氏と共に裁判所に駆けつけ、書記官から2通の決定書を渡され、急いで目を通しました。

全勝です。

ヒルトン側の仮処分申請が全面的に採用され、東急側の申請はすべて却下されました。書記官室の中で、私とウィルナー氏は、固く握手しました。握手したまま、暫く互いに無言で目をみつめ合っていました。

二つの決定の理由は、当然のことながら共通しており、その要旨は次のとおりでした。

  1. 東急は、支配人クレッグを解雇した理由として、同人が職務に精励しなかったばかりか、東急に損害を与えるような数々の不信行為をしたと主張するが、いずれも疎明がない。
  2. ヒルトン・ホテルズ・インターナショナル("HHI")が1964年に東急の同意を得ることなくその株主構成を変更し、かつ商号をヒルトン・インターナショナル・カンパニーと変更したことは、東急とHHIとの間の業務委託契約に違背する背信行為であるとの東急の主張については、証拠に照らして、そのような背信行為と解し得ない。
  3. 更に、HICは、昭和42年2月23日東急の同意を得ることなく、申請外トランスワールド・エアラインズ・インコーポレイテッド("TWA"と略称する。)の支配の及ぶ新会社を設立し、同会社に自己の有する一切の権利及び権益を譲渡すると同時に、HIC自身はTWAと合併する旨の契約をなしたが、右行為は前項と同じく前記業務委託契約第26条の条項に違背する背信行為であると東急は主張するところ、確かに、≪証拠略≫によると東急主張の合併及び権利権益譲渡を東急の書面による事前の同意を得ることなくなした事実は認めることができるが、≪証拠略≫によるとTWAとHICとの合併が、ヒルトンの世界的組織の利点を従来と変りなく活用し享受しようとの意図に出たものであり、更に、右意図を実現するためHICの全額出資による子会社を設立し実質的には同一の経営者によって、かつ、同一の運営方針に従って右会社が運用されるものであることを認めることができるから、前記業務委託契約第26条によって保障されてきたところのHICを介し享受されてきたヒルトン組織による東急の利益も引続き維持されることに帰する。従って、前記HICの行為をもって、これが右条項に違背するものとなして右業務委託契約を解除し得ると解するのは相当ではない。
  4. 従って、業務委託契約書の解除を理由とするクレッグへの解雇の意思表示も無効である。

喜色満面のウィルナー氏やクレッグ氏らは直ちに東京ヒルトンホテルのマネージメントを実際にクレッグ氏に取り戻すべく、活発に行動を起こし、また、翌13日に、プレスとの会見をすることを決めました。

翌日は五月晴れでした。ウィルナー氏は、40名程の内外の記者に、東京ヒルトンホテルに隣接する日枝神社の境内に集まってもらいました。そして皆の先頭に立って、なだらかな坂を下ってホテルの正面玄関に到り、皆が見守るなかで、ポールに揚げられていた東急の旗を下ろし、ヒルトンの旗を揚げました。そして全員ホテルに入って、ロビーに着席し、茶菓が供され、記者との会見が始まりました。私は通訳としてウィルナー氏の左隣りに座りました。やがて、記者達との質疑応答も終わり、雑談に入ると、私の左隣りに座っていたブレークモアさんが、"flamboyant"を何と訳したのかと私に尋ねました。その少し前に記者の一人がウィルナー氏に対し"Why did you want to have such a flamboyant ceremony?"と皮肉を交えて質問したことを指してのことでした。私が「派手派手しい」と訳しました、と答えると、ブレークモアさんは黙っていました。ひどい訳だと思われたのかもしれません。辞書には、"派手やかな"或いは"華麗な"という、耳触りもよい訳が載っていて、"派手派手しい"というのは載っていないようですから。しかし、質問した記者が明らかに批判がましく使った表現だったので、私はそれに引きずられて咄嗟に、批判的で消極的な"派手派手しい"という、自分でも殆ど使ったことのない訳語を口走ったのだろうと思います。詰まらないことですが、そのことがとてもよく記憶に残っています。

こうして、東京ヒルトンホテルは、4月20日東急による占領から22日後、無事にヒルトンの手に戻りました。後日談ですが、東急側は、新しく印刷した"キャピトル東急"名の宣伝用マッチ箱の山のような在庫が無駄になった、と嘆いていたということです。僅か3週間でヒルトンが復帰したため、従業員も離散することなくヒルトンは大喜びでした。日本の裁判所は審理の遅さで悪名が高いとか、日本の裁判官は国家主義者だから外資を負かせるに決まっているとかいう、外国のジャーナリズムの予測は見事に外れました。

ウィルナー氏は翌14日、急いでニューヨークに戻って行きましたが、すぐに寄越してくれた手紙には、"I am still feeling euphoric."と書いてありました。私達N&Oのチームも、大事な仕事をなし遂げて、喜びを頒ちあったのはいうまでもありません。ただ、私は、ヒューストンで未知のウィルナー氏から電話を受けて以来、3週間の精神的な重圧と緊張から解き放たれて、力を尽くして成功した達成感よりも、虚しさを強く感じていることに、自分で驚きました。ヒルトンが勝とうが東急が勝とうが、一体それがどうしたというのだ。所詮は私企業間の争いで、どちらが勝とうが世の中全体にとってはどうでもよいことではないのか。そんなことに、一切を抛って力の限りを尽くす価値があるのだろうか。そのような想いでした。言うまでもなく、その想いはそう長くは続かず、やがて改めてprivate practiceに積極的な意義を見出すようになったのですが、そのときの深い虚無感は、鮮やかに記憶に残っています。

その後の訴訟手続については、東急側がホテルを取り戻すことを実質的に諦めたため、殆ど苦労することはありませんでした。ともあれ、この東京ヒルトンホテル事件での勝利により、N&Oの名はかなりよく知られるようになりました。そして、渉外の仕事は引き続き順調に伸びて行きましたが、訴訟事件、特に渉外訴訟事件の受任が増えるということは格別ありませんでした。いずれにしても、1964年に留学から帰国してN&Oが渉外の仕事を始めてから3年目に、著名な事件で勝利を収めることができたのは、真に幸運で、N&Oをヒルトンに推薦して下さったブレークモアさんには心から感謝したことでした。

[2004年6月執筆]
(つづく)