ところで、私は所沢道夫法律事務所に入るほんの少し前まで、所沢さんとは一面識もありませんでした。イソ弁の就職先を見つけようとしていたとき、当時の第一弁護士会館の前で四期の田中常治さんという弁護士に呼び止められました。田中さんは東大の法学部に私より一年あとに入ってきた海軍兵学校出の人で、二次大戦中は駆逐艦の艦長であったそうですが、私はそれまで田中さんとは一度も口をきいたことがありませんでした。しかし田中さんの方は、なぜか私が田中さんより一年先に司法試験に合格した頃から知っていた由で、実は東大の商法の矢沢教授から親戚の弁護士のイソ弁に誰か紹介して欲しい、と頼まれているのだが行ってみる気はないか、と言うのです。
その数日後、私は所沢事務所で所沢さんと矢沢教授の面接を受け、漸くイソ弁の口が決まりました。
矢沢教授は、私が大学生の時はまだ助教授で講義をしておられず、一度も話す機会はありませんでしたから、その時が初対面でした。しかし、それから8年経って全く思いがけなくハーバード・ロー・スクールへ留学することになったのは、ある時の矢沢教授の一言の示唆がなければあり得ないことでした。私が留学しなければ、長島・大野法律事務所は決して渉外を手がけるようにはならなかったでしょうし、そうすれば現在のような長島・大野・常松法律事務所には決してなり得なかったのです。そして、その矢沢教授の一言も、一弁会館の前で田中常治弁護士と私が偶然に出くわさなければ、あり得なかったのです。
前回に書いたように、所沢法律事務所は蛎殻町にありました。所沢さんの先代が自宅兼事務所に建てた、木造三階建ての鰻の寝床のような建物の、前半分の一、二階が事務所でした。玄関に入って靴を脱ぎスリッパに履き替えて、直ぐ右が三畳ほどの応接間で、そこは私より大分年上の女のタイピストが使っていました。もっとも事務所専属のタイピストではなくて、外部の仕事を自由にしていいのです。そして、部屋を無料で使わせてもらう代わりに、所沢事務所の仕事は、格安の料金で引き受けるという取り決めになっていたようです。
その奧が書生部屋で、事務机を二つ並べて置いてあり、中央大学法学部の夜学に通っている学生が一人、昼の間、書生をしていました。夜学生の書生とタイピスト各一名、イソ弁が一人というのは、当時の弁護士事務所の典型的な体制だったと思います。
さて、書生部屋の脇の廊下を奧に進むと階段があり、それを二階に上がると、突き当たりが所沢弁護士の十五畳位の大きさの執務室兼会議室でした。先代からの古風な書斎机と応接セットが置いてあり、窓には重々しいカーテンがかかっていて、夏には黒い扇風機が音をたてて回り、冬にはガスストーブが燃えていました。
そして私が与えられた部屋は、所沢弁護士の大きな部屋の隣の、二畳の部屋でした。そこだけはどういう訳か畳の部屋で、壁に袋戸棚がついていて、私はそこに事件記録を平らに積み重ねて置くことにしました。二畳の部屋に事務机と自分用の椅子、それにもう一つ依頼者用の椅子が入っていましたから、もう一杯一杯でした。入所して間もない頃だったと思いますが、ある日、判例タイムスの当時の編集長であった戸川晋吉さんが訪ねて来て、その二畳の部屋の依頼者用の椅子に座り、私と向き合いました。すると、なにせ狭いので、もう二人の鼻がくっつきそうなのです。たまたま私は、昼に三軒先の栄楽というラーメン屋(いまも健在です。)の大蒜がたっぷり入ったラーメンを食べた直後だったので、戸川さんには本当に気の毒なことをしてしまいました。
[1999年7月執筆]
(つづく)