さて、銀座時代で最も大きな出来事の一つは、三井三池の大争議に、新労組と呼ばれた第2組合の組合員とその家族の人権擁護を同盟に頼まれて、大野さん、福井さんと私の3人が1週間交代で大牟田の旅館に泊って新労組の事務所に常駐し、第1組合やその支援団体の連中の、想像を超える有形無形の暴力行為を、何とかして止めさせようと奮闘したことでした。
それは総評傘下の三井三池労働組合の闘争至上主義に絶望した組合員達が全労系の新労組を組織したところ、裏切り者だとしてその組合員と家族達に旧労組の組合員とその家族達が間断なく加えるようになった激しい物理的・精神的迫害から、彼等を弁護士として力の限り守るという、全く新しい経験でした。以下に掲げる大野さんの回想記にもその一端が生き生きと記されていますが、人間は集団心理によりここまで少数者である同僚やその家族を迫害できるものかと、おぞましい醜さを痛感する毎日でもありました。旧労の組合員達の中には、水筒と称して節目の詰んだ太く重い竹筒を棍棒代わりに持ち歩く者もいました。また釘を先端に打ちつけた棒を持つ者もいました。そのように“武装”し、数をたのんで炭住街(炭砿夫の長屋街)をのし歩き、夜には暗に乗じて、路上で新労組員を襲いました。公衆浴場の女湯で新労組員の子が入っていると、旧労組の主婦達が、「犬の子はこうしてくれる。」といって逆さ吊りにして頭から湯舟につけたりもしました。それに対して新労側は、暴力を否定していましたから、殆ど為すがままにされ、せいぜいコショーの粉で目潰しにすることを考える程の、いじらしさでした。大野さんと福井さんと私の三人は、一週間交代で三池に常駐し、毎日、新労の事務所を拠点に警察や検察庁に出かけたり、告発状を書いたり、新労の内部の会議に出席したり、新労を支援する民社党の代議士に会ったり、会社側の弁護士と連絡をとったり、忙しく働きました。時には、旧労の組合員や旧労を支援する部落解放同盟の連中に十重二十重に取り囲まれ、吊し上げを受けて恐ろしさを感ずることもありました。反面、百戦錬磨の組合の指導者が、内部で意見を集約して行く力量に感嘆したり、世を震撼させた大争議に各政党と内閣やマスコミがどのように係ってくるかを、組合の側から見守ったり、得るところも少なくありませんでした。
また、振り返ってみると、この経験は私達三人が水も洩らさぬ連係体制をとって、3ヶ月に亘り交代で一心に職務を遂行しながら、相互の信頼をそれまでにも増して強固なものとすることにより、後の旧N&Oの精神的基礎を磐石のものにしたのだろうと思います。
三池争議のこと
弁護士 大野 義夫
1960年の三井三池争議の最中、4月末頃に全労から、三池新労組の組合員とその家族の人権擁護のため、現地に常駐して相談に乗ってほしいとの依頼を受けました。当時事務所は、全林野労組の東北闘争と呼ばれる大規模な争議行為の事件処理を林野庁から受任し、その年の1月から毎月のように、4名の全弁護士が青森、秋田、前橋等に出張し、日程的に忙殺されていました。また組合側の依頼は初めてのケースでした。しかし三池争議の深刻な状況は日々報道されていましたし、三池労組の闘争至上主義を批判して結成された新労組の3月下旬の就労再開に対し、旧労組の実力行使による阻止のため流血の惨事が生じたことは、天下の耳目を聳動しました。それで取りあえず1ヶ月の予定ということで、長島さん、福井さん、私の3名が1週間交代で大牟田の新労組本部の事務所に常駐することになったのです。
今私の机上に、長島さんが保存されていた「三池炭坑新労働組合の件」と題する、1冊の古い大学ノートがあります。これは長島さんの発案で、現地での日々の仕事と行動を日誌式に記し、次の人への引継ぎ書類としたものです。今回それを一読して、当時の状況をまざまざと思い出しました。現地に山積する問題と組合の強い要請により、出張常駐は結局、5月初めから7月末までの3ヶ月間続きました。当時の資料によると、分裂前の三池労組の組合員は約15,000名、分裂後の3月下旬当時で新労組の組合員が約4,800名といいますから、私たちが常駐した頃には、新労の組合員は5,000名から6,000名の間ではなかったかと思います。
当時は新幹線以前の時代ですから、日航機で夕方福岡へ飛び、そこから1時間余りして大牟田に着きました。駅の近くの梅屋旅館というのが私たちの常宿でした。新労本部の事務所もすぐ近くにあり、毎日朝の9時から夕方まで作業し、時々は深夜に及んだことがあります。土曜も日曜もほとんど同じでした。当面の仕事は、炭住地域と呼ばれる社宅街で頻発する旧労組員、その家族等による新労組員とその家族に対する暴行、脅迫等の暴力行為について、新労組としての告発処理、乱闘事件に関連して逮捕、拘留されている新労組員についての弁護活動が中心でした。これらについては、すでに福岡から3名の弁護士を依頼して処理していましたが、常駐ではなく随時大牟田に見えるということで手が廻りかね、私たちの常駐を求めてきたものです。
私の第1回目は、長島さんに引続き5月中旬から約10日間常駐しました。社宅街における暴力事犯の被害者からの事実聴取と告発状の作成作業、本部法対部員の手助けを借りながら1日に6、7件を処理。それと併行して新労組員の被疑者との面接、担当検事(福岡地検大牟田支部、時には本庁)との折衝、新労執行部との協議、助言、さらには警察への警備要請等に追われました。また長島さんが道を開いていた会社側代理人(竹内、渡辺さん等長島さんと同期の方が中心)、会社総務担当の人々との会合、意見交換等を行い、当時結成されていた大牟田再建市民運動本部の代理人(東京からの若手弁護士数名)とも同様の会合を持ちました。旧労側は総評、炭労、解放同盟等の多数オルグの動員を得て、会社側の立入り禁止仮処分を阻止すべく、大牟田の街は騒然としていました。
解放同盟といえば、新労が旧労を批判した教宣文書に不当な用語があったということで、新労本部3役の即時辞任を要求し、連日強力な抗議行動、デモ行動を繰り返したものです。この処理をめぐっては社会、民社両党の代議士等による話合いが続き、中々解決できませんでした。また旧労と三池共済会が原告となり新労組員多数を被告として、争議中の生活資金貸出しにつき貸金返還訴訟を福岡地裁に提起してきました。その目的は新労組員の糧道を断ち、新労の潰滅を図るものであったことは明白です。この訴訟については福岡の弁護士を中心として、法的問題点の検討、応訴方針等の打合せを重ね、後には私たちも被告ら代理人として出廷するようになりました。
一方では、後に仮処分執行阻止をめぐり有名となった三川鉱のホッパー(石炭搬出庫)の視察、社宅街の被害状況の視察、調査等を行いました。当時旧労の重なる暴力行為のため、新労組員のかなりの世帯が社宅から避難し、隣の荒尾市を中心に集団疎開をしていました。疎開先を順次回って家族の声を聞いたことがありますが、旧労組員やその家族等による迫害行為は凄まじいもので(強力な主婦会が結成されていました)、また疎開先の生活には実に様々な苦痛、問題があることを訴えられました。新労本部としても、疎開者を順次社宅に復帰させる方針を採りました。第2回目の6月の常駐の時、疎開者の社宅復帰に立ち会うことになりましたが、私自身社宅街で旧労のデモ隊に取り囲まれ、立ち往生する目に会ったことがあります。その時の状況は次のようなものでした。
その日は10時から新労副組合長、本部部員とともに、疎開者18世帯約50名の社宅復帰に同行。荷物用のトラック2台、疎開者用のバス1台、乗用車3台で出発。荷物運搬と護衛のため新労員50名ほども同行。当時社宅街付近には相当数の警察隊が駐屯していたので、事前に充分連絡し届出をする。社宅街に着くや、約200名の旧労員が呼笛により当方の周りをジグザグデモ。しかし警察隊が出動していたためそれ以上の挙には出ず、警察立会の下に各自自宅に戻り、荷物の整理に取り組む。この間旧労員はスピーカーを通じ「警察は争議に関与するな!即時帰れ!」等繰返しガナリ立てる。だがそれ以上の行動には出なかったので、午後に至り我々は一旦引き揚げた。
15時過ぎ別の社宅街に、数日前復帰した人々に対し暴力行為が発生したので、新労のその地区代表のA氏方に副組合長、本部部員と3名で出向いた。社宅街の入口から15メートルほど先のA氏宅に歩きかけたとき、10名余りの旧労員が飛び出てきて「何しに来た。帰れ。」と罵言、詰め寄る。ものの4、5メートルも歩かない内に、続々と出てきた坑内帽、ヤッケ姿の旧労員200名位いに取り囲まれた。我々3名は切り離されて全く歩けなくなった。特に副組合長に対しては怒号、罵声甚だしく足を踏まれ小突かれている模様。私に対しては「何者だ。帰れ。」などの暴言、罵声(弁護士バッジは着用)。私に対し手こそかけないものの、取り囲まれて身動きができず。何時の間にかその小路の前方と後方には旧労の宣伝カーが1台ずつ詰めかけ、前後を塞ぐ。その内駐屯の警察官10数名が中に割って入ってきたが、我々とともに取り囲まれる状況。暫くして旧労の幹部らしき者が現われ「我々は通行を妨害はしない」「しかし用件を言ってくれなければ帰って貰う」等々の押問答の結果、20分に限りA氏宅に行くことを認めると一方的に全員に呼びかけ、通行させた。この間20分から30分位いのことであった。
A氏宅に入り数日来の状況を聞いている内に、約300名のデモ隊が同氏宅附近に結集、気勢を上げ始める。同時に警察隊約150名が駆け付け、デモ隊を小路まで下げさせてにらみ合いとなった。A氏はかなり動揺していたが、昨晩から支部組合員が1戸3名づつ泊りに来てくれたので、やっと踏みとどまっているとのことであった。17時過ぎ警備主任の警部が来て、旧労は当方と話し合いたい、応援の支部員が帰らぬまでは動員は解かないと言っているが、話し合う意向はないかとのことだった。取りあえず応ずることになり、支部責任者間での予備交渉により相手方の誠意を確認。A氏宅に新労居住者のほぼ全員を集めて検討した結果、(1)新労組員社宅周辺でのデモを止める、(2)説得行為をしない、(3)個人に対する誹謗はしない、特に女、子供を脅かす言動は絶対しない、(4)新労関係者の出入を妨害しない、(5)入浴時間をとりきめ、入浴を妨害しない(当時社宅は共同浴場)、要は各人が平穏に居住できる状態を確約せよ、それに責任を持つというのであれば、当方の応援者を引き揚げるとの案を提示することになる。これを受け相手方がデモ隊を解散させたので、新労副組合長を含め双方の支部代表者同数が荒尾署公安課長の立会の下、表てで話合いに入る。その結果、旧労側は(2)の説得行為につき個人的なものまでは約束できないが、その他は責任をもって努力するとのことで、口頭ではあったが了解成立。一応相手方の信義を重んじ居住者以外の者は引揚げることになった。20時頃当方も現場を去る。
翌日16時頃から、本部部員、支部役員とA氏宅に出向く。昨日と変って全く平和である。子供達が喜々として遊びたわむれ、昨日の事態は夢のようだ。A氏の話では昨夜来デモ、アジ全くなく平穏。ただ朝刊に入っていた新労のチラシの内容につき、旧労の地区代表数名が談話者(居住者)に抗議に来た。直ちに当方の地区代表が出て話合ったが、応援者もなく平穏な抗議に終った由。今日の状態が続くなら告発は不要に思うとのこと。
その後も社宅街を何度か訪ね、地区により状況は違っていましたが、全体として大分平穏になってきました。社宅復帰先に私や副組合長等が出向いたことはかなりの効果があり、A氏の地区における話合い解決は好評を得ました。
話しが長くなりましたが、鉄の団結を誇っていた三池労組の闘争の一端は以上のようなものです。デモ隊の包囲、通行阻止が今少し続いていたらどうなったか判らない気がします。組合の団結、統制の前には個人の居住や通行の自由すら認めず、その行動は犯罪行為以外の何ものでもなかったのです。旧労の厳しい統制主義、人権無視に対する新労員の批判は烈しく、我々は止むに止まれず分かれたので第2組合と言われるのは心外だ、我々こそ新しい眞の組合を作る積りだと話してくれたことがあります。それにしても、長年の組合活動で鍛えられた新労副組合長等の強い毅然たる態度には感心しました。また話合い解決の場合でも新労居住者の意見を充分述べさせ、それをまとめて相手方の説得に当る等、私としても得るところが少なからずありました。
今から考えれば、三池争議はわが国の組合運動にとって大きな転機となったものです。
[2000年12月執筆]
(つづく)