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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第12回 米国留学(その二)

さて、当時の所沢法律事務所は、仕事の上で外国とも英語とも全く無縁であったことは、前に何回も書いた通りですから、いかに受験者が多くなかったとはいえ、私がどうして英語のみによる筆記、口頭試験に合格したのか、と不思議に思われるかも知れません。(筆記試験は、法曹人口に関する小論文を1~2時間で書くことでした。口頭試問は、前回に書いたように、服部、田辺両判事とスタンフォードのハールバート教授、AMRのラビノウィッツ弁護士の4人が試験委員で、筆記試験で書いた小論文などについていろいろ聞かれました。)私自身も、合格は到底無理だろうと考えていたのですから、合格通知を受けて随分驚きました。英語についての合格理由を強いて言えば、その3年程前から、仕事の暇を見て割合熱心に英語(といっても主に会話)を勉強していたのが、良かったのだろうと思います。少なくとも、それをしていなければ、絶対に合格しなかったはずです。仕事には全く必要のない英語の勉強を3年程前に始めたきっかけは、兄から刺激を受けたことでした。兄は私より3歳上で、慶應出の医師ですが、その兄が英国留学のためのBritish Councilの奨学金試験を受けるべく、熱心に英語を勉強していることに、ある日偶然気付いたのです。その頃の私は、仕事にこそ割合熱心ではありましたが、余暇には酒を飲んだりテレビで力道山の空手チョップに夢中になるなどブラブラしているばかりしたから、兄に較べてつくづく自分が恥ずかしくなり、六本木にあった会話学校に週2回夜通うようになり、またNHKラヂオ第2放送の朝6時20分からの松木徹の英会話を出張中も缺かさずに聞き、1週間分を丸暗記したり、後には千駄ヶ谷の津田英語会にも、帰宅の途中通いました。しかし、将来英語を使って何をするというあてもなかったので、「こんなことをしていて一体何になるのだろう。」と滅入ることも少なくありませんでした。今振り返ると、途中で挫折しないで続けていて、本当に良かったと思います。

さて、司法研修所の試験に合格した後は、翌年の夏の留学までの約1年の準備期間中、何人もの方々からそれは親切で温かな支援と指導を受けました。たとえば、服部さんはケースブックに馴れていた方がよいと言って、御自分がハーバード・ロー・スクールで研究中にお使いになったField and KaplanのCivil Procedureを貸して下さいました。開いてみると、服部さんのきれいな字で殆どすべてのページに書き込みがあり、御勉強ぶりが一目瞭然で、これも刺激になりました。田辺さんは、何かにつけて頻繁に会って下さり、いろいろと助言して下さいました。あるときは、「今研修所にハーバード・ロー・スクールの卒業生の若い弁護士が奥さんと一緒に来ている。聞けば、修士号をとるためにロー・スクールへ9月に戻るというから、顔見知りになっておいた方がよいだろう。今すぐにこちらに来られないか?」という電話を下さいました。田辺さんのこの御配慮で、その夫婦には留学中随分世話になり、今でも親しい友人です。それだけではありません。ラビノウィッツさんの奥さんは、当時高輪に在った御自宅で、何回か私に英会話を教えて下さいましたし、AMRの別の弁護士ウィリアムズさんも、時々会って英語を教えて下さいました。また、ラビノウィッツさんは、労働関係について英語で助言できる弁護士は外に知らないから、といってAMRの極めて重要なクライアントのIBMに私を紹介して下さり、私は今から思うと甚だ頼りない英語で、当時、労働組合問題で少なからず揺れていた日本IBMの米国人幹部に助言するようになりました。

やがて61年の夏が来て、フルブライト奨学金下付の条件として、オリエンテーションを受ける時が来ましたが、何しろ自分にとっても事務所にとっても初めての留学ですから、仕事の引き継ぎが進まず、仕事に追われる日々でどうすることもできず、またしても田辺さんのお力でオリエンテーションを免除してもらいました。夏中休みをとることなしに働き続け、8月下旬に漸く離日することとなり、事務所で送別会を開いてくれました。今はもうありませんが、麻布プリンスホテルのプールサイドが会場で、所沢さんをはじめ弁護士全員(といっても私を除くと5名)が夫人同伴で集ってくれました。AMRのラビノウィッツ夫妻、ウィリアムズ夫妻、それにアンダーソン弁護士まで参加して下さいました。今と違って、留学がまだ普通ではなかった時代であったればこそでしょう。

フルブライト留学生を米国に運んだ氷川丸は60年を最後に引退しましたので、61年のフルブライターはプロップジェットの飛行機でした。航続距離が十分でないので、はじめはウェーキ島に給油のために着陸。海岸近くには戦争中に坐礁した日本の輸送船の前半分だけが残っていて、赤錆びた姿を海中に曝していました。次いでホノルルで給油、そして遂に米本土の西岸に達し、サンフランシスコ空港に着陸する前、眼下に金門橋を目にしたときの感動は到底忘れることができません。「11年前には憎んでも憎んでも未だ足らない仇敵として戦って来た米国。できれば1,000人以上の米兵を殺せるよう輸送船に体当りしたいと願って飛行機の操縦に励んだその相手の米国に、自分は遂に来たのだ。勉強する為にやって来たのだ。しかもその米国からの奨学金をもらって。」という屈折した想いが去来しました。何故日本は敗れたか、この国を良く知りたい。そして1年間、非常な迷惑をかける事務所の同僚のためにも、日本に残してきた妻子のためにも、しっかり勉強しなければならない、と思いました。

サンフランシスコでは、バークレイ・ホテルというユニホン・スクエアの近くの今もあるホテルに投宿しましたが、出発前の無理が祟ってすぐに発熱し、3日2晩じっと独りでホテルのベッドで寝ていました。そして少し気弱になっていたところへ、田辺さんから電話がかかって来ました。田辺さんは、ハーバード・ロー・スクールでの会議に向かわれる途中、かつてのもう一つの留学先のスタンフォード・ロー・スクールを訪ねるため、サンフランシスコに立ち寄っておられたのですが、私がホテルで休んでいると申し上げると、すぐに来て下さいました。そして、もう熱も下がっていた私のベッドの傍で、何時間もいろいろな話をして下さいました。その中で、「伊藤正巳さん(東大の英米法の教授で、同じく会議に出席する為ハーバード・ロー・スクールへ向かわれる途中でした。)に会ったところ、今年は東大から金子さんという税法の助教授がハーバード・ロー・スクールに留学するそうですよ。きっと長島君といい友達になるでしょう。」と言われたのを、今でもはっきり覚えています。その金子宏さんには、ケンブリッジに着いてからすぐに会うことができ、それ以後心から尊敬する友人として40年ずっと親しくしてきました。先年、その金子宏東大名誉教授がNO&Tの顧問に就任されたことは皆さん御存知の通りです。田辺さんが予言された通りでした。

[2001年4月執筆]
(つづく)