さあこれで念願叶ってウォール・ストリート・ロー・ファームで働かせてもらえると勇み立ち、翌日 Hale & Dorr に出勤するとすぐにマネージング・パートナーに会いに行き、昨日の電話を報告すると、これまた思いがけなく、サマー・クラークの期間が終った後も続けて雇用するからニューヨークに行くのはやめるように言われました。ウォール・ストリート・ロー・ファームの連中は snobbish でいいことはないから、などとも言われました。私はその Paul Helmeth というマネージング・パートナーの温かい申し出に心から感謝しましたが、ウォール・ストリートの魅力には抗し難く、どうしてもニューヨークに行きたいので、といって諒承してもらいました。
こうして1963年の10月から翌年の6月まで最も格の高いウォール・ストリート・ロー・ファームの一つである Milbank Tweed で実習することができました。このロー・ファームに私を紹介してくれたのは、その前の夏にそこでサマー・クラークとして働いた Jim Hamilton というロー・スクールの友人でしたが、彼と知り合ったのは彼がproctor(学生監)をしていた学生寮で盗難があり、隣の寮に住んでいた私が、どういうわけだったか忘れましたが、参考人として彼を中心とする何人かの寮生に呼び出されてヒアリングを受けたのです。そのことがなかったならば、私がウォール・ストリート・ロー・ファームで実習するというその後の旧N&Oにとって非常に大きな意味をもった出来事は起き得なかったわけですから、人生何が幸運をもたらしてくれるか判りません。
さて、その Milbank Tweed は当時160人位の弁護士を擁し、Chase Manhattan 銀行やロックフェラー・ファミリーを最大のクライアントとするファームで、米国の当時の一流のロー・ファームがすべてそうであったように、gentlemen's club としての誇りを持ち、いかにもそれらしい雰囲気のファームでした。前年にはじめて foreign associate として若いフランスの弁護士を採用したことがあり、私は二人目の foreign associate であるということでしたが、パートナーもアソシエイトも皆大変紳士的であり親切でした。私の月給は1年目のアソシエイトと同額の600ドル。ボストンでは週給80ドル、即ち月に320ドルでしたから、大幅に増えたわけですが、親子5人でニュージャージーの Bergenfield という町のガーデン・アパートメントに住みウォール・ストリートまで1時間かけて通う私の生活は、ボストンよりも経済的に楽でなかったことを覚えています。
この Milbank Tweed では、私に採用の電話をかけてくれた Orr 弁護士が気を配って多くのパートナーに経験を積ませてやってほしいと頼んでくれたため、senior litigation partner が自分の弁論を聴くよう法廷に連れて行ってくれたり、capital market のパートナーが適当な証券発行の仕事に参加させてくれたり、ロックフェラー・ファミリーのための仕事を手伝わせてくれたり、銀行貸付契約の勉強をじっくりさせてもらったりしました。何しろ力も経験もないのですから、Milbank にとっては何の役にも立たず、一方的な持ち出しだったに相異ありませんが、私にとっては真に有り難い経験でした。しかし振り返ってみると、後々の旧N&Oにとって最も有益だったのは、所内の弁護士との仕事を通しての、また昼食時間や午後のtea time(Milbankでは毎日午後3時から tea time があり、弁護士は所内の喫茶室へ行ってクッキーをつまみコーヒーを飲みながら同僚と話を交わすことを奨励していました。私は帰国後、旧N&Oにこの tea time を導入し、大変好評だったので長年続けましたが、やがて人数の増加と事務所スペースの不足のために廃止せざるを得ませんでした。)での日々の接触だったように思います。それを通して、Milbankという当時の典型的なウォール・ストリート・ロー・ファームの弁護士達の仕事の仕方、考え、心情、暮らしぶり、ファームの組織、運用などを識るようになりました。
Milbank での毎日は、ボストンの Hale & Dorr のようなゆったりとした楽しいものではありませんでしたが、当時の最も新しいビルの高層階に窓のある一室を与えられ、とても満足でした。その頃、日本人の弁護士でウォール・ストリート・ロー・ファームにいる者は外になかったので、少なからぬ日本人がMilbankに私を訪ねてくれました。そしてある日、常松さんが訪ねて来られたのです。その時が初対面の常松さんは、当時コロンビア・ロー・スクールに留学しておられたと思いますが、それから37年後に長島・大野・常松法律事務所が誕生しようとは、神ならぬ身の知る由もありませんでした。
[2002年5月執筆]
(つづく)