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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第3回 蛎殻町時代(その三)

では、そこでその頃、弁護士は一体どんな仕事をしていたのかを話しましょう。

1945年8月15日、戦に敗れて日本が無条件降伏した時、それまでの絨毯爆撃といわれた米軍の無差別で徹底した空襲により、多くの都市は焼け野が原と化し、生産設備は完膚なきまで破壊され、交通網は寸断され、絶望感と飢餓の恐怖が国を覆っていました。しかし、今考えると驚くべきことに、それから僅か八年たらずで、食料と衣料の事情はもうすっかり戦争前に戻っていました。葭町を含めて、花街が活況を呈していたことからも、それは明らかでした。1950年、降って湧いたように起こった朝鮮戦争が日本の経済にもたらした莫大な利益がなければ、とてもああはならなかったでしょう。奇跡といわれた敗戦後の日本経済の急速な復興と成長には、このような隣国の不幸による僥倖があったことを忘れはならないと思います。

当時は、それでも、建物特に住宅はまだ非常に不足していましたから、多くの民事弁護士の仕事の重要な部分は、家屋や土地の明け渡し等、不動産関係であったと思います。それから、労働運動が盛んでしたから、労働専門の弁護士はなかなか華やかでした。第一東京弁護士会の会長をも勤めた同期の友人、竹内桃太郎君は、当時最も有力な経営側の労働専門弁護士であった橋本武人事務所に入り、忽ち日産自動車の大争議のような著名な事件に専念するようになりました。労働側では、これも私と同期の東条君が、自由法曹団の花形として、多くの労働事件に大活躍を始めていました。

さて、我が所沢事務所はどうであったかというと、これはまことに地味というか、静かなものでした。所沢弁護士の主な依頼者としては、皮革関係の会社や中小企業の協同組合がいくつかあったようでしたが、私が仕事を命じられることは、殆どありませんでした。他方、私が学んだことのある旧制東京高校の何人かの先輩は、私が弁護士になるとすぐにいろいろ仕事を頼んでくれました。私が大学を卒業してすぐに入社し、二年足らず勤めた三菱化成(現在の三菱化学)も即日、顧問弁護士にしてくれました。加えて、その頃、判例体系の編集を始めた第一法規から、パートタイムでその編集を補助することを委嘱されました。そんなわけで、所沢事務所のイソ弁として固定給を受けることは、時間的にとても無理なので、固定給は2、3ヶ月受けただけで、辞退しました。固定給の月額は、16,000円であったと記憶します。

その後も、所沢弁護士から命じられる仕事は、これと言ったものがなく、今から考えると、所沢さんは何故その年にイソ弁を雇おうとしたのか、よく分かりません。私が自分の仕事で多忙となってしまったため、所沢さんは私に、翌年研修所を出る修習生を一人見つけるように指示しました。そしてその時も又、奇しくも旧海軍の人の縁で、海軍経理学校出身の元海軍主計少尉である大野さんが1954年4月に所沢事務所にイソ弁として入って来ることになったのです。

それにしても、当時の蛎殻町、人形町、葭町の界隈は実に味わいのある町でした。それまで、神田の本屋街より先には行ったことのなかった山の手育ちの私にとって、見るもの聞くもの、すべてが新鮮でした。残念なことに、バブル時代の地上げの結果、いまでは黒板塀に見越しの松の家並はなくなり、不揃いなビルの町になってしまいましたが、それでも僅かに残った路地では、微かながらも昔の風情を忍ぶことができます。

葭町の路地に入りて三軒目 最中屋の店先 萩のこぼるる (佐倉 中村克己)

朝日歌壇に1996年頃出ていた短歌です。

[1999年7月執筆]
(つづく)