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Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第4回 蛎殻町時代(その四)

蛎殻町時代の仕事の様子を、もう少し話してみましょう。

今では想像もできないことでしょうが、私が毎日持って歩く書類鞄の中に必ず入っていたものは、裁判所に提出する訴状や保全処分の申立書を書く為の薄手の用紙、カーボン紙、下敷き、鉛筆、それから和紙の紙撚(こより)でした。何時でもどこでも裁判所に提出する書類の正、副、控を複写で書き、とじて提出できるようにする為です。当時の大部分の弁護士にとっては、これらは必携具だったように思います。手形のような証拠物も、やはり自分で複写紙を用いて作成するのです。不渡りを示す赤い字の部分は赤で書いた記憶があります。そのようなことに随分時間を使っていたのですから、いま思うと能率の悪いことでした。尤も、その頃既に株式会社リコー製のリコピーに代表される濕式で青焼きの複写機はありましたが、遅い上に乾くと丸まってしまうので、始末の悪いものでした。しかし、この状態は私が蛎殻町の所沢事務所に入った1953年の後も、今ではごく当り前の乾式普通紙使用の複写機が普及するようになった1960年代後半まで続いたのです。

手動式の和文タイプは、1945年の敗戦前からありましたから、多くの法律事務所でもタイピストを置いていて、裁判所に提出する書類はタイプしたものが徐々に増えて行ったように記憶します。私も、出先で急いで作成しなければいけない場合の外は、裁判所に提出する書類は手書きの原稿をなるべくタイプしてもらうようにしていました。しかしこの和文タイプライターというものは、ずっと後にワープロに取って代られるまでは、最後まで手動式しかなかったように思います。英文タイプライターの場合は、電動式が多分1950年代に出て忽ち普及したのですが、和文タイプライターでは字数が2,000以上はあったでしょうから、電動化は無理だったのでしょう。いずれにしても、手動式タイプライターの速度はおそらく今の若い人達の想像を超えるもので、一字打つのに少なくとも3秒はかかったのではないでしょうか?ずっと後になって、私が1964年に留学から帰ってから事務所を訪れる外国人が増えるようになり、広くもない事務所を私が案内する機会が多くなりましたが、彼等が最も興味を示し且つ驚くのは、タイピストによる和文タイプライターの骨の折れる操作でした。当時は、日本の製造業の高能率が徐々に外国で評判になり始めていましたので、私はその都度、"This is the only bottleneck in the Japanese efficiency."などと言って、言い訳のような自慢のような説明をしたものでした。

複写とタイプについての非能率さの外に、交通・通信についても、当時の事情と現在の事情を比べると、本当に驚かざるを得ません。新幹線もなければ航空会社も皆無、e-mailはおろかファックスもテレックスもない状態を想像してみて下さい。電話について言えば、国際電話は当時でもあったのでしょうが、私達にとっては全く無縁のものでした。国内でも長距離電話は大変に高くつくので、安易にかけるべきものではありませんでした。

そんなわけで、現在のNO&Tの皆さんの毎日の仕事ぶりを見ていると、私は、自分が若い時期に何と非能率な働きぶりをしていたのだろう、とつくづく思わざるを得ません。その上、仕事の内容も、NO&Tで現在取り扱っている多くの仕事に比べると、内容が随分単純でした。さらに、自分では忙しがっていましたが、勤務時間中でも仕事に飽きてくると、親しくしていた近所の鰻屋に出かけて、女将にお茶を出してもらって世間話をしたりしていました。又、夕方からは友人や依頼者で、いわば「酒閥」の仲間と誘ったり誘われたりで、大抵酒になりましたから、勉強どころではありません。まして、当時の「よし町」は毎年「よし町くれない会」を明治座で賑々しく興行する華やいだ街でしたから、尚更のことです。私が翌年結婚した時は、貯金はゼロ、料亭への借金だらけという有様でしたから、推して知るべしです。ですから、当時の私と同じような年令のNO&Tの若い弁護士達が、長時間、わき目もふらずに難しい仕事と取り組んでいるのを見ると、この人達がこの調子を続けると、10年、20年後には一体どんなに凄い法律実務家になるのだろうと、一種、空恐ろしい気がします。

そんな私でしたが、強いて何か取り柄があったろうかと考えてみると、次のようなことが言えるかもしれません。第一は、形はイソ弁でしたが実質的には悉く自分が直接いくつかの企業の依頼を受け、一から十まで自分の裁量と責任で、一つ一つの案件を初めから終りまで真面目に一所懸命処理していたこと。これはsolo practitionerにとって余りにも当り前のことですが、振り返ってみると、実務家としてのいわば強い気構え造りに役立ったように思います。第二は、一見それと矛盾するように思われるかもしれませんが、所沢法律事務所からの独立を考えなかったということです。先頃、陸軍士官学校出身の法曹の会があり、その席上、友人の一人が、「君は弁護士になりたての頃、この会で独立せざるの弁を打ったね。」と、私が久しく忘れていたことを想い出させてくれました。そうなのです。私は、当時から法律事務所は何とか永続的な組織であるべきだと考えて、行く行くは所沢法律事務所をそういうものにしたいと思っていたのです。私は、1951年に司法研究所に5期生として入所する前、三菱化成工業株式会社の文書課というところで今でいうイン・ハウス・カウンセルとして2年足らず働いたのですが、仕事上、会社の顧問弁護士に相談に行くことがありました。よく相談に行かされたのは二人の顧問弁護士で、一人は自分だけの事務所、もう一人はイソ弁一人をおいて弁護士二人の事務所でした。いずれも訴訟とは無縁の質問であったり、一般民商事法の範囲外の問題であったりすると、あたかも自分の守備範囲外のような顔をすることもあり、いずれにしても助言が薄味だと常に感じていました。イソ弁を置いている方の事務所も、歴代イソ弁は数年で独立し、その繰り返しと聞いていましたから、それでは個々の弁護士の知識・経験は少しも蓄積されずに墓場に入って行くだけで、社会的にも非能率で勿体ない、と不満に思っていたのです。

話は変りますが、所沢道夫弁護士によると、先代の頃は、依頼者と弁護士執務室兼応接間での打ち合せが終ると、依頼者は奥の居宅へ案内され、そこで酒肴が出されて先代の奥さんがもてなしたのだそうです。所沢道夫さんの時代には、もうそのようなことは無くなっていましたが、地方では、当時でもそのようなことは珍しくなかったのかも知れません。それを思うと、NO&Tの弁護士業務は実にビジネスライクで、奥さん達は早く生まれ来なくてよかった、と思うかも知れません。

[1999年10月執筆]
(つづく)