1961年に長島・大野が発足してから約40年になる。来年新世紀のはじめから他事務所と合併して新発足することになった。事務所発足当時10名に満たなかった所員の数は今日約400名以上に増大し、その3分の2以上は発足時には生まれていなかった人達である。従って40年といってもこの間事務所のメンバーで一緒に仕事をしてきた人々の数は限られている。それでもこれらの人々や仕事についてはいろいろと思い出があるので、この際その一部を書き遺しておきたい。
1 労働事件の受任
長島・大野発足前の所沢法律事務所の時代である1958年から我々は林野庁の労働事件を担当するようになった。その年全林野労組が、作業員の賃金を仕事の出来高に応じて支払うという永年の制度を廃止し定額日給制にせよと要求する斗争を実施し、青森、秋田、群馬県内のいくつかの営林署でストライキ、座り込み、管理者監禁等の行為を行ったので、多数の組合員が懲戒処分され、その処分が不当であるとして人事院に審査の申し立てがなされたので、我々が林野庁を代理することになったのである。この事件はその後数年間継続し、初めの頃は長島さんも審理に出ていたが間もなく留学し、その後は概ね大野さんと私だけで処理するようになった。事件は最終的に林野庁が全面勝訴し法律的紛争は結着したが、全林野はその後も事ある毎に出来高廃止を訴えて斗争を継続した。その結果近年は出来高制度は殆ど有名無実となっていた。しかし出来高に重きをおかない林野庁の木材生産性は年々著しく低下し、林野庁は巨額の借金を抱えて倒産寸前の状態となり、本年特別の法律で組織・機構・人員を大巾に縮小し、辛うじて生き残れることになった。このような中で全林野の勢いも凋落の一途を辿った。出来高制は「馬の鼻面に人参を吊るす」式の非人間的人権無視の制度であるというのが左翼的な全林野のリーダーによって宣伝されたスローガンであったが、それがイデオロギー過剰の観念論であったことが今日までの経過によって実証された。今日グローバルな市場主義経済体制の下で企業が生き残る為には賃金は従業員の業務上の成果に応じて支払われるべきものであること、言いかえれば出来高制でなければならないと強調されていることは周知の通りである。
人事院の審理は原則として紛争のあった現地で行われたので、この間大野さんと二人で東北各県の滅多に行かない各地を駆け巡った。余禄もあって数多くの温泉や景勝地も訪れた。青森県の港町八戸の宿では、黒田節の名手であった「赤坂小梅」さんに「八戸小唄」を教えたという土地の芸者さんから二人で特訓を受けたことがあったが、大野さんがその後成果を披露したことはなかった。また美空ひばりさんも泊まったことがあるという貯木場の宿泊所に逗留し、美人で評判の秋田おばこ手作りの「切りたんぽ」を楽しんだこともあった。中尊寺や立石寺など「奥の細道」ゆかりの場所も訪れた。
2 その後の労働事件の展開
その後労働事件が増えて来て三池炭鉱事件や農林省の食糧事務所、統計事務所、労働省、外資系航空会社などの事件も受任するようになり、三池には、長島さん、大野さん、私の三人が一週間交替で出張常駐した。大野さんと私の出張は増える一方で出張先も北海道から九州まで全国に拡大した。これらの事件の多くは当時の左翼的な組合の指導による合理化反対・勤務評定反対斗争に関係するもので、彼らは、合理化などは反労働者的な独占資本と保守反動政権に奉仕するものであるといっていた。しかしこのような斗争が間違いであったこともその後の歴史が証明することとなった。即ち非効率な炭鉱は次々に閉鎖され、肥大した農林省等の組織機構は縮小の一途を辿った。合理化や勤評なしには官民共に生き残れなかった。
その後事件が増えると我々の出張には新しく入所して来た弁護士の応援を受けることとなり、その結果私は現パートナーの多くの人々とチームを組んだ。角田さん、吉田さん、原さん、大武さん、中島さん、藤縄さん、内藤さんの面々である。角田さんとは南アルプスの麓を流れる野呂川上流にあった営林署の事業所によく足を運んだ、吉田さんとは羽田空港の格納庫で航空会社の組合が会社の機材を実力占拠している所に乗り込み、占拠をやめるよう説得しそれを吉田さんが録音しようとして激しい抵抗を受けたことがあった。原さん、大武さんとは営林署の事件で宮崎県の陸の孤島といわれた高千穂に出張した。処分を受けた中心人物の一人は高千穂峡にかかった橋の欄干を渡り歩いたという豪の者で審理でも激しいやりとりがあった。しかし滞在中に有名な夜神楽や天の岩戸をみたり、斜めに切った青竹に入れたカッポ酒を飲みながら正調刈干切唄を教えてもらったりした。中島さん、藤縄さん、内藤さんとはよく北海道に通った。おかげで滅多に行けない利尻、礼文、天売、焼尻などという日本海の島々にも渡ることが出来た。中島さんと行ったとき、御土産にイクラの一杯つまった大きな鮭を貰い持ち帰ったがあとで料理するのに手こずったことがあった。藤縄さんと有名な競争馬の産地である日高地方に出張したとき、夕食時に凍らせた馬刺し(鮭の場合はルイベという)を山盛り出され、藤縄さんは大分辟易していた。内藤さんは大いにスキーを楽しんでいた。ある時二人で大雪山系では一番高い旭岳に登り、営林署の人がかついで来たビールを振舞われて感激したことがあった。
[1999年12月執筆]
(つづく)