icon-angleicon-facebookicon-hatebuicon-instagramicon-lineicon-linked_inicon-pinteresticon-twittericon-youtubelogo-not
SCROLL
TOP
Memoirs of Founder Nagashima 長島安治弁護士の手記

第9回 銀座時代(その一)

所沢法律事務所が室町3丁目にあった時代は1955年1月から1960年7月までの5年7ヶ月間で、1960年8月から銀座時代が始まります。その前にもう一つだけ室町3丁目時代のことを話しておきましょう。

振り返ってみると、旧N&Oがその後渉外法律事務所に発展して行く萌芽が、ほんの僅かながら室町3丁目時代にありました。具体的には、大野さん、福井さんと私の3人で、英法の原書の論読会を始めたのです。Geldartの名著"Elements of English Law (1911)"を少しずつ持ち廻りで訳して議論する、というものでした。きっかけは、或る日私が「これからは英語が第二日本語になる。」という記事を新聞か何かで読んで、衝撃を受けたことでした。そして、せめて法律英語だけでも判るようになりたいと思い、大野さんと福井さんの賛同を得て始めたのです。後から、田中隆さんという当時第一法規で判例体系の編集の仕事で私を手伝っておられた勉強家がそのことを知って加わり、4人になりました。(田中さんはその後間もなく司法試験に合格し、弁護士となって、旧N&Oに入って来られました。)週に1回だったと思いますが、読解力が弱い上に、朝早く仕事を始める前の事務所の中(場所は何時も、手洗のドアの前におかれた応接セットでした。)での論読会ですから、辛くもあり本当に少しずつしか進みませんでしたが、英語と外国法を勉強すべきなのだという考えを、漠然とはしていたものの、私達が共有するようになった始まりだったと思います。当時の私達の弁護士としての仕事の内容には、前にも書いたように、英語や外国法の欠片もなく、その点では当時の他の日本の殆どすべての法律事務所と全く変りはなかったのですが、上記の考えを共有するようになっていたという点では、少し変っていたのかもしれません。それにしても、それから40年以上も経った現在もまだ、「英語を第二公用語に」という議論が交わされているのは、日本の実用英語の水準の向上が遅々として進まないことを示すものであり、心を痛めざるを得ません。

さて、銀座時代の所沢法律事務所の話に移りましょう。銀座の私達のオフィスビルは、デパートの松屋の裏手に新しく建てられた「東京中小企業会館」という名の8階建の、間口は大変広いが奥行は非常に浅いビルでした。東銀座2丁目に現在でも残っています。今でもビルの周りの環境はパッとしませんが、当時は向かい側に「東京温泉」やらパチンコ屋が並び、あまり品が良いとは言えない環境でした。

所沢法律事務所は最上階の8階で、広さは40坪余りだったと記憶しますが、ビルの形状からして当然のことながら、中は鰻の寝床のようで、スペースを仕切ろうにも輪切りにしかできないのです。そこで鰻というか羊羹のようなスペースを4つに仕切って、エレベータ・ホールからすぐのとっつきの15坪程のスペースに受付兼和文タイピストと書生2、3名を配置して事務室とし、且つ衝立で仕切った応接セットを2つ程配置しました。その奥の6坪程のスペースに応接室とそれを迂回する廊下を配しました。そしてその奥の20坪弱のスペースを所沢さん以下全弁護士の部屋とし、執務机を8つ程両側の窓に沿って並べました。そして一番奥の2坪程のスペースを仕切って、私達にとって初めての図書室としました。電話は、ボタン式でそれぞれの弁護士が机上でとれるようにしましたが、弁護士室で電話の応答があると他の弁護士の気が散ると考え、原則として外線との電話は執務室の廊下に出て話すようにしましたが、これはどうも不便でした。床には初めて絨緞を張りました。ゴムの薄い板に化学繊維の毛を密に植え込んだものにすぎませんでしたが、濃い緑の絨緞がwall-to-wallで敷き詰められているのを見るのは、嬉しいものでした。

しかし、銀座のビルに移って一番嬉しかったのは、全館冷暖房でした。特に冷房のお蔭で、夏に窓を開けずに執務できるようになりましたから、外の騒音や埃や風に悩まされることなしに、何時も静かで快適な温度の部屋で働くことができるようになりました。更にその上の福音は、夏でも食欲が減退しないため夏痩せしなくなり、それまで毎年経験していた秋口の病気を、全くしなくなったことでした。

さて、移転して間もなく、所沢さんが御披露目のレセプションをやろうと提案し、同じ8階のエレベータ・ホールの向かいにあった40坪程の集会場で、昼食時にレセプションを開きました。100人以上のお客さん達が来て下さったと記憶しますが、所沢さんの姻戚に当る矢沢惇教授が、伊藤正巳、石川吉征門、三ヶ月章等東大法学部の若手の教授を7、8名連れてお出でになりました。教授の皆さんはレセプションの帰りに、オフィスに立寄って下さいましたが、その中で三ヶ月教授が、「日本でもこういう法律事務所ができたか!」と感心して下さった声を、今でもありありと想い起こすことできます。今のNO&Tの事務所に比べれば、ビルの場所と質、一人当りのオフィスのスペース、内装、什器備品等どれひとつとってもひどく見劣りするものでしたが、敗戦後15年しか経っていなかった日本としては、上等の方だったのかもしれません。

[2000年8月執筆]
(つづく)