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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第11回 米国留学(その一)

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第11回 米国留学(その一)

今回は旧N&Oにとって大きな転機になった私の米国留学がどのようにして起きたかを記しておこうと思います。私がハーバード・ロー・スクールへ留学したのは1961年の9月で、日本では敗戦から16年経ち、人々の生活も漸く安定し、池田勇人内閣が打ち出した所得倍増計画に「まさか」と思いながらも、ある程度希望を托していた時代でした。街には、観音開きのドアのトヨペットが走り始めていました。しかし、これまでの「蠣殻町から紀尾井町まで」を読んでお気付きのように、わが所沢法律事務所の仕事には外国語は無縁でしたから、留学などということは、考えたこともありませんでした。

そのきっかけは、1959年、私が何となく思いついて、5期の研修所の組(当時の組の数は五つでした。)のクラス会を開いたところ、親しいクラスメートであった武藤春光君(長期間研修所の民事教官、後に広島高裁長官。木村寛富さん、関根攻さん、吉田正之さん、大武和夫さんはいずれも武藤教官の教え子です。)も出席し、同君が前年の夏ハーバード大学のキャンパスで開かれた4週間のサマー・セミナーに参加した際の話を聞かされました。聞いてみるとなかなか面白かったそうで、また夏の4週間程度なら休んで休めないことはない、と思ったので、翌年のセミナーに応募したところ、日米協会による選考試験があり、最後の3名の候補者に入ることができました。(口頭試問の試験委員の一人であった英米法の泰斗末延三次東大名誉教授に、「英米法について何か読んだ本はあるか。」と聞かれて、すかさずGeldartのElements of English Law ― 大野さん、福井さんと論読したことを前に書きました ― を読みましたと答えたところ、末延先生が強く反応されました。それが良かったのかも知れません。)そこで、推薦状を書いて下さった東大の商法・証券法の教授矢沢先生にその旨を電話で報告したところ、先生は少し考えておられたようでしたが、「4週間位米国に行ったところで殆ど何もならない。偶々いま司法研修所で米国のロー・スクールが出す奨学金の受給候補者の選考試験をやっているから、それを受けて、1年間ロー・スクールに行ってはどうか。」と言われました。正に矢沢先生のその一言が、私と旧N&Oの将来を決定づけたのでした。

私にはそのような留学制度があることも全く初耳でしたし、また1年も仕事を離れることなど凡そ無理だろうと思ったのですが、私が所沢法律事務所に入ったのは、この連載の第一回に書いたように矢沢先生のお蔭だったわけですから、外ならぬ矢沢先生の言われること故、殆ど反射的に、「はい、そうしてみます。」と答えて、すぐに研修所に連絡し、間もなく研修所で実施された選考試験を受けました。受験者は判事補と弁護士がそれぞれ数名程度、全部合わせても10人も居なかったように思います。筆記試験に次いで口頭試問がその日のうちに行われました。口頭試問の試験官はスタンフォード・ロー・スクールから研修所に研究に来ておられた民訴のハールバート教授、後の最高裁長官服部高顕判事、修習生時代に東京地裁で勉強会を設けて教えて下さった1期の田辺公二判事、それにアンダーソン・モーリ・ラビノウィツのラビノウィツ氏の4名で、英語のみによる口頭試問でした。

この司法研修所の留学選考試験に私は幸いにも合格することができ、ハーバード・ロー・スクールへ推薦され、同校からすぐにLL.M. candidateとして受け入れ奨学金を支給する旨の通知が来ました。ただ、同校の奨学金は授業料免除であって、渡航費はフルブライト委員会からの奨学金でした。その外にアジア財団からも奨学金が出ました。すべて1期の田辺判事の御盡力で、数年前からこのような制度ができていたのでした。私はこの制度の下での3回目の奨学金受給者であることもわかりました。第1回は、いずれも7期の中根宏弁護士と河合伸一判事補(後に最高裁判事)、第2回は4期の久保田穣弁護士(著名な特許専門家)と7期の山木判事補(京都地裁所長の後に退官、故人)、そして第3回は私一人がハーバード・ロー・スクールから奨学金を受け、並行してダラスのサザン・メソジスト・ユニバーシティ・ロー・スクールからの奨学金については第1回は3期の田尾桃二判事補(後に仙台高裁長官)が受給者となり、第2回の受給者は中津晴弘弁護士だったように思います。私と同じ年の第3回は7期の千種判事補(後に最高裁判事)が受給者でした。因みに、ハーバードからの第4回の受給者は7期の尾崎行信弁護士(後に最高裁判事)と某判事補の二人でした。この制度は、不確かですが多分7回目か8回目を最後に、廃止になりました。日本が敗戦後の経済復興を遂げたため、双方のロー・スクールとも限られた奨学金を他の後進国に向けた為と思われます。

[2001年2月執筆]
(つづく)