• ホーム
  • 事務所紹介
  • 国内・海外拠点
  • 業務内容
  • 弁護士等紹介
  • 講演・セミナー
  • 著書・論文
  • 採用情報

ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第13回 米国留学(その三)

ここから本文です。

第13回 米国留学(その三)

さて、1961年9月初め、ハーバード・ロー・スクールで日本法についての会議が5日間に亘って開かれました。偶々その月からgraduate studyを始めようとしていた東大の金子助教授(現在の当事務所顧問)、九大の吉村助教授と私の三人は、会議を毎日傍聴するだけでなく、発言も許されるという幸運に恵まれましたうえ、この5日間の会議は日米双方の参加者の多くが実に優れた専門家であり、その一人一人が提出したペーパーの内容も水準が高く、私にとって終生忘れ難い想い出になりました。日本側の参加者の中の実務家には、私が敬愛してやまない二人の裁判官、即ち後に最高裁長官を勤められた服部高顕判事と、司法修習生第1期の田辺公二判事が居られました。お二人ともハーバード・ロー・スクールで1年間研究されたこともあって知己も多く、米国側の参加者がお二人にに対して深い敬意と友情を抱いていることがよく判りました。

そもそもこの会議は、フォード財団の財政的支援を受けて1950年に始まった法学交流計画("The Japanese American Program for Cooperation in Legal Studies")の仕上げであったのですが、この計画によって2次大戦後の日本におけるアメリカ法の研究と米国における日本法の研究が本格化したのです。そして、この会議に提出された17の論文がArthuer T. von Mehren教授の編集によって一冊の本"Law in Japan - The Legal Order in a Changing Society"としてHarvard University Pressから出版され、外国における日本法研究に大きな役割を果たしたのです。それから40年が経過し、その間に日本法の外国人研究者は増加し、アメリカではワシントン大学(シアトル)、コロンビア大学、ハーバード大学、ニューヨーク大学、ミシガン大学、ワシントン大学(セントルイス)等の各ロー・スクールで専任の教授を擁する日本法の講座が設けられ、オーストラリア、ドイツ、イギリス、オランダ等でも日本法が教えられるようになり、外国での日本法の研究は量・質共に昔日の比ではなくなり、名著"Law in Japan"は古典となりました。

そこで、前記のハーバードでの1961年の会議の40周年を記念して40年を振り返り、再び本格的な日本法の会議を開こうという動きがDaniel Foote教授(現東大)を中心として1999年頃から始まり、フォード財団に支援を求めたところ、時代が変わってフォード財団は今回は興味を示しませんでした。(いわゆるJapan passingの一例と言えるのかも知れません。)その結果、当事務所がこの計画に賛成し、旧N&Oと旧TY&Sの2001年の合併の記念の意味も込めて支援することになり、第2回のLaw in Japanの会議が2002年8月にシアトルで開かれることとなりました。その会議には第1回と同様、参加者による論文が提出され、会議の後にFoote教授の編集によって本にまとめられ、NO&Tの支援のacknowledgmentを付して2003年中に出版される予定です。その本もまた第1回の"Law in Japan"と同じように、日本法の研究者、日本法に関心を有する実務家、学生達にとって、必読の書となることでしょう。

なお、前記の日米法学交流計画の副産物の一つに、日米法学会があります。1964年の秋に、末延三次教授(東大・英米法)が理事長に就任され、法学交流の日米の参加者の多数がそれぞれ日本支部、アメリカ支部の理事に就任し、田中英夫教授(東大・英米法)が幹事となって発足した学会であり、その創立総会で、偶々その夏の留学から帰国したばかりの私が、矢沢惇教授、伊藤正巳教授等の指示で、当時は日本では未だ殆ど知られていなかった米国の大ロー・ファームの組織、運営と役割について講演し、以後ずっと学会の理事を勤めるようになりました。そして、1998年に代表理事になりましたが、1961年の会議の日米双方の参加者の大多数は既に他界され、感慨を覚えざるを得ません。

"Law in Japan"の話はそれ位にして、40年前の米国留学の見聞は、今の若い皆さんには多少なりとも興味があるかも知れないので、そのいくつかを話してみましょう。

1960年代初めの米国は、本当に輝いていました。米国の人心を荒廃させたベトナム戦争は未だ始まっておらず、人々は自信に満ちて他人には寛容且つ親切であり、後に現れたヒッピーはまだその兆しすらなく、大都会でさえも概ね清潔で規律のある社会であったと思います。それに、日本は未だ敗戦による貧困を引きずっている国でしたから、日米の豊かさの差は今と違って余りに大きく、我々留学生はハイウェイに目を見張り、スーパーマーケットに驚嘆し、ロー・スクールのキャフェテリアの食物にさえも感激するといった有様でした。また、日本人の留学生が集って酒が入ったりすると、2次大戦で日本は何故米国に敗れたのかを、熱心に議論しては敗北を口惜しがり、慨嘆するという時代でもありました。日本の自動車はダットサンが少し輸入されていたそうですが、日本の鉄鋼の品質が悪いため肝腎のエンジンが弱く、ハイウェイを高速で走れないから駄目だ、などという話も聞きました。また留学中にNECのテレビを輸入していた業者がNECを米国で独占法違反により訴えるという事件があり、その代理をしていたKaye Scholerというニューヨークの法律事務所の依頼で少し手伝いをしましたが、それを通じて当時日本のメーカーが対米輸出で主にユダヤ系の輸入業者の手玉にとられている例が非常に多いことを知りました。当時は日本の商社も未だ非力だったのです。

日本食のレストランも非常に少なく、ボストンに行くと韓国人が経営している日本料理の店があるという話でしたが、ケンブリッジには全くありませんでした。そこで後に駐フランス日本大使や外務省儀典長を勤められた内田さんという人と二人で、大学の近くのチャイニーズ・レストランに行き、米飯に中国式の醤油をかけてわびしく食べたこともありました。日本の醤油の味にいくらか近いと感じたからです。

さて、私が留学に出た後の旧N&Oでは、所沢、大野、福井の三人のパートナーの外に堀内昭三さん(12期)、山崎行造さん(13期、後に山崎行造特許法律事務所を開設して今日に至る)、小松雄介さん(13期、後に西村・小松事務所、小松・狛・西川法律事務所、現在は友常木村法律事務所)の6人の弁護士体制で、林野庁の膨大な労働事件(東北地方で起こった大規模な労働争議に対する懲戒処分を不服とする人事院での公平審理)を中心に、その他の労働、一般民商事の仕事を忙しく処理していました。私が離日した翌年には穂積忠夫さんが入所されたのですが、私は面識がなく、まだ米国におられた前記の田辺公二判事にこういう修習生をN&Oで採用することを検討していますとお話したところ、田辺さんはすぐに、「あゝ、その人なら法学協会雑誌に非常に精緻な論文を書いておられますよ。」と言われました。川島武宣教授の教え子であった穂積さんの、「法律行為の解釈の構造と機能」という東大での助手論文のことでした。さすがに田辺さんはよく勉強しておられる、と感心したことでした。

[2001年12月執筆]
(つづく)