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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第17回 米国研修(その三) J. Speed CarrollとCleary Gottlieb

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第17回 米国研修(その三) J. Speed CarrollとCleary Gottlieb

Milbank Tweed に雇ってもらったことによる、いわば直接的な収穫については前回記しましたが、間接的な収穫も大きなものでした。

その第1は、スピード・キャロルが私の帰国に合わせて1964年9月から1年間、所沢・長島法律事務所で働く約束をしてくれたことです。彼が、ハーバード・ロー・スクールで私のホスト・スチューデントであったことは前に書きました。スピードというのは随分変わったファースト・ネームですが、彼の出身地テキサスでは変わったファースト・ネームをつけることがそう珍しくはないのだそうです。当時米国はまだ徴兵制を維持していましたから、彼はテキサス大学卒業後、2年間海軍仕官を勤め、ハーバード・ロー・スクールに進み、3年生の時に初めて私に会ったのです。冷静沈着、思慮深く、頭脳明晰であり、テキサス大学の同級生であった妻マーサ(Martha)と共に異国の文化に強い興味を抱き、62年にロー・スクール卒業後はすぐにクリアリー・ゴットリーブ(Cleary, Gottlieb, Steen & Hamilton)というウォール・ストリートでは戦後組ながら特に国際案件で令名の高いロー・ファームに採用され、すぐに1年間の休暇を認めてもらってロンドン大学のアジア・アフリカ研究所に奨学金を得て留学し、アフリカ研究をした後、私がミルバンク・トゥイードで勤務を開始した1963年の秋からアソシエイトとしてクリアリー・ゴットリーブのニューヨーク事務所で働き始めたのです。ミルバンクとクリアリーのそれぞれのニューヨーク事務所はウォール・ストリートの中で至近距離にありましたから、スピードと私は頻繁に昼食を共にしているうち、スピードが1年間東京で働いてみたいという強い希望を抱くようになりました。

前回も書きましたように、私は3年もの長い間、所沢・長島法律事務所を離れ多大の迷惑をかけている同僚の厚意に報いるためには、帰国後渉外という事務所にとって全く新しい分野を開いて事務所に貢献する外はないと考えていましたし、それには自身如何にも力不足と感じていましたので、スピードが一緒に働いてくれればどれ程心強いことだろうと思い、大いに嬉しく思いました。

しかし問題がありました。

一つは、クリアリー・ゴットリーブが実質1年生のアソシエイトのスピードに再び1年間の休暇を認めてくれるだろうか、ということです。そのために、スピードと私は昼食時間に何回もスピードからクリアリー・ゴットリーブのマネージメントに対して行う説明の内容を慎重に打ち合わせました。そして、やがてその説明がなされた後、私がクリアリー・ゴットリーブのマネージメントに会って説明しました。そして首尾よく、スピードに対する2回目の1年の休暇が承認されたのです。承認された理由としては、勿論、1年生ながらスピードの優秀さが既に認められていたことが大きいと思いますが、加えて国際感覚が卓越していたクリアリー・ゴットリーブが当時既に日本の将来性を高く評価していたのだろうと思います。

後から聞かされたことですが、クリアリー・ゴットリーブは私をスタジエールとして採用することを内定していたのだそうですが、ミルバンク・トゥイードが先にオファーを私に出したため、実現しなかったのだそうです。クリアリー・ゴットリーブのあるパートナーは、私がミルバンクにいる間に、親切にも私をエクソンのアジア部門担当子会社のジェネラル・カウンセルに紹介してくれました。後で触れることになりますが、私が帰国して数年後にエクソンは旧N&Oの重要なクライアントになりましたが、そのきっかけを作ってくれたのは、クリアリーのパートナーでした。クリアリーは、スピードが旧N&Oでの1年の勤務を終えてニューヨークに戻った後も、旧N&Oを米国、フランス、オーストラリア等の企業に推薦してくれました。テキサコもその一つでした。私の後に米国に留学した大野さんと福井さんのそれぞれの実習先を世話して下さったのも、クリアリーのパートナー、とりわけ James Johnson という方でしたし、また、クリアリーは我々の事務所の弁護士を次々にスタジエールとして採用してくれました。現在NO&Tに在籍の弁護士では、伊集院さん、角田さん、吉田さん、中島徹さん、三笘さんがそうです。真に旧N&Oはクリアリーから非常な恩を受けてきたのです。加えて、クリアリーには世代を問わず弁護士として優れているだけでなく、人間としても真に上等な人が多く、その外の面でも私はクリアリーという法律事務所を深く尊敬し信頼しています。

さて二つ目の問題は、スピードの給与です。私が帰国した後に果たして所沢・長島法律事務所に渉外の仕事が来るかどうか、その保証は全くないのです。幸い、私はハーバード・ロー・スクールに留学する前に日本で弁護士として8年間働いていましたから、ある程度貯金がありました。そして、スピードと話し合って決めたスピードの1年間の給与額は、私の貯金の額の範囲内でしたから、もしも帰国後渉外の仕事がゼロでも、スピードに対しては所沢・長島法律事務所に負担をかけることなしに、年俸を払えることになり、スピードにスタジエールとして来てもらうことについての同意を所沢・長島法律事務所の他のパートナー3名に対して臆することなく申請し、皆が快く同意してくれたのでした。

間接的収穫は外にもありました。当時も今も、ミルバンクのニューヨーク事務所はウォール・ストリートの One Chase Manhattan Plaza というビルの中にありますが、同じビルに大蔵省と日銀の共同ニューヨーク事務所がありました。(今もあるかもしれません。)その大蔵・日銀ニューヨーク事務所の秘書は伊藤新子さんという方でした。同じビルの中にある気易さから、私は時折大蔵・日銀の人達を訪ねて行きましたので、伊藤さんと顔見知りになり、伊藤さんが長い米国生活を切り上げて帰国を考えていることを知りました。私が帰国して渉外を立ち上げるのに、英語に堪能な秘書が必要なのに、所沢・長島法律事務所にはそういう人は一人もいなかったので、私は伊藤さんを誘ってみましたところ、伊藤さんは快く応じて下さいました。因みに伊藤さんの年俸とスピードの年俸を合計すると、渉外の仕事が全くなかった場合、私の貯金は1年間で殆どなくなる計算でした。しかし、幸いにも私の帰国後、その後を追って来日してくれたスピードと伊藤さんは、所沢・長島法律事務所が渉外を起ち上げるのに非常な貢献をし、短期間のうちに次々に仕事がくるようになりましたので、私の貯金には全く手を触れる必要はありませんでした。

今回はクリアリーについて大分話しましたが、私を雇ってくれたミルバンクに対しても、私は非常に感謝しています。ミルバンクは私の後、木村寛富さんをスタジエールとして採用してくれましたし、もっと後になってからは樋口孝夫さんも採用してくれました。また木村久也さんは、当時は日本の他の法律事務所に所属していましたが、やはりミルバンクで実習しました。ただ、ミルバンクは80年代に競争相手に遅れをとった由で、それを解決するため採用した方策の結果、社風が随分変わってしまい、私が勤務していた頃のミルバンクとは同一のロー・ファームとは思えないような面があります。私にとっては大変寂しいことです。

[2002年10月執筆]
(つづく)