• ホーム
  • 事務所紹介
  • 国内・海外拠点
  • 業務内容
  • 弁護士等紹介
  • 講演・セミナー
  • 著書・論文
  • 採用情報

ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第18回 帰国、林修三顧問のこと

ここから本文です。

第18回 帰国、林修三顧問のこと

1964年7月、私は3ヵ年に及んだ米国留学を終えて帰国しました。東京オリンピックの年でした。所沢・長島法律事務所では、所沢、大野、福井、山崎、堀内、伊集院の7人の弁護士と3人の事務員と1人のタイピストが私を待っていてくれました。穂積さんと伊集院さんは私が留学中に入所されたのでしたが、穂積さんは私と入れ違いに既にコロンビア大学のロー・スクールに留学するため渡米していました。事務所の仕事は、このシリーズの第6回に福井さんが書いておられるように林野庁の膨大な公平審理をはじめ、労働事件が大きな比重を占め、とりわけ大野さんと福井さんは出張に次ぐ出張という忙しさでした。しかし私は、前にも何回か書いたように、どうしても所沢・長島法律事務所が渉外の仕事を始められるようにしなければならないと決心していました。そうしなければ、3年もの長い間留学を認めて下さった事務所の同僚の皆さんの努力が報いられないと思っていましたし、更には、弁護士にも米国ロー・スクールからの奨学金が出るように途を拓いて下さった田辺公二判事の御期待にも応えたことにならないと思ったからです。(その田辺さんは私が帰国する少し前に、42歳という若さで亡くなっておられました。そのことを知って私は本当に驚き、また落胆しました。留学中の経験、とりわけボストンのHale & Dorrの経験とウォール・ストリートのMilbank Tweedの経験など、当時の日本人にとっては未だ珍しいことでしたから、田辺さんにお話して、日本の渉外実務について田辺さんの広い視野に立ったお考えを聞かせて頂こうと思っていたのですが、それは叶わぬことになっていたのです。私は裁判所の者でもなく研修所で田辺さんの教え子であったわけでもなかったので、田辺さんの突然の死を留学中の私に報せる人が誰もいなかったのは当然でしたが、あの田辺さんにもうお目にかかれないと思うと、非常な悲しみを覚えました。その後、田辺さんの追悼文集『恩寵の器』が出されましたので、私は田辺さんの奥様にお願いしてその中の田辺さんの写真の焼き増しを頂戴しました。額に入ったその田辺さんの遺影は、爾来40年近く事務所の私の部屋にあり、失意の時も得意の時も微笑を湛えて私を見守って下さっています。)そういうわけで、私は帰国後、すぐに渉外の仕事を始められるよう準備にとりかからなければなりませんでした。間もなく伊藤新子さんとスピードが着任するので、それまでに渉外の仕事が来始めていないと困ると思い、焦ってもいました。そんなときに、ロスアンゼルスのZoltan Mihaliという弁護士から航空郵便が届き、そこには彼の重要なクライアントのカリフォルニアの会社の社長が近く東京に出張し私に仕事を頼むため何月何日に事務所を訪問するからよろしく頼む、と記されていました。彼は元々ハンガリーで弁護士をしていたのですが、ソ連軍による制圧の直前に米国へ亡命し、英語を忽ち修得してハーバード・ロー・スクールへ入り、税法専門の弁護士となった人で、私は留学中に彼と識り合っていたのです。私はいよいよ初めての渉外の仕事が来ると知って、跳び上がる程喜びました。そして、遂にその社長が来るという日になって、何も仕事のない私の机の上がきれいさっぱりしていることに気付き、これではクライアントが不安になるかもしれないと思い、姑息にも無理に英文の書類を沢山机上に置いて忙しそうな外観を作ろうとし、その社長の来訪を待ちました。ところが程なくやって来た50前後のその米国人は、事務所に入って来るや数枚の手書きの契約書のドラフトを私に突き出し、何時間後にとりに来るからタイプしておいてくれ、といってすぐに立ち去りました。それだけでした。私はひどく失望しましたし、また自分が滑稽でもあり惨めでもありましたから、そのときのことは今でも忘れることができません。そのドラフトの契約書の相手方が澤藤電機という会社であったこと、契約書はその澤藤電機の製品である小型冷蔵庫の取引に関するものであったことなどもよく覚えています。

その後間もなく、何一つ渉外の仕事がないまま、伊藤新子さんとスピードがニューヨークからやって来て着任しました。どうすれば渉外の仕事が来るようになるか、スピードも心配していろいろ相談に乗ってくれました。そして始めたことの一つは、所沢・長島法律事務所の既存のクライアントである三菱化成、三菱樹脂などの日本の企業に、無報酬で締結ずみの国際契約を検討して上げることでした。その頃は日本の多くの企業と米国の企業との間に合弁会社契約、技術援助契約、販売代理店契約等を締結することが盛んになっていましたから、締結ずみのそれらの契約を見せてもらうのに困ることはありませんでした。クライアントの方も何しろ無報酬でいいというのですから、では一つ見てもらうか、というわけで協力してくれました。どんな契約でも妥協の産物ですから、後から第三者が見れば問題点の一つや二つないわけはありません。それをスピードと2人で検討し、その結果を書面でクライアントに送ることをしました。そのことにより、それらの企業が所沢・長島法律事務所に渉外の仕事も頼めるようだと思ってくれ、簡単な相談がチラホラですが来るようになりましたが、それだけではとてもやって行けません。そんなわけで、渉外の仕事の滑り出しはとても順調とはいえませんでしたが、たまたま既存のクライアントの三菱油化から税法上の大問題についての相談が入ってきました。ある化学製品の生産奨励の為の税法上の非常に多額の特典を受けられると思っていたのに、それが受けられなくなりそうなので相談したい、ということでした。留学前の私でしたら、税法の問題は間違いなく敬遠していたでしょうが、米国留学中に税法専門の金子宏さん(当時東大助教授、現在東大名誉教授、NO&T顧問)と親しくしていたこともあって、ロー・スクールで税法の勉強もある程度しましたし、特にHale & DorrとMilbak Tweedでの実習で、米国では税法問題は法律事務所の重要な分野になっていることを十分見聞きしていましたから、勇躍して三菱油化から説明を聴取しました。その結果、これは理論武装をした上で先ず大蔵省の主税局と国税庁の上層部に会って話を聞いて貰うべきだと判断しました。幸い、私は帰国後すぐに当時法制局長官を退官されて間もなかった林修三さんを所沢・長島法律事務所の顧問に迎え入れていましたので、林さんの紹介で、主税局審議官の吉田二郎氏をはじめ目標とした高官に次々に会うことができました。理論武装についても、林さんに相談に乗って頂きました。その結果(といえるのかどうか主税局、国税庁の決定理由の本当のところは今でも解りませんが)、程なく三菱油化の主張通りの減免措置が認められることになり、当時としては多額の報酬を受け取ることができましたので、渉外の仕事がなくても経費の支払いに困ることはありませんでした。序でですが、林さんは延べ10人程の総理大臣に法制局長官として仕えたという記録保持者で、実に博覧強記、NHKラジオの「話の泉」という戦後評価の物識り自慢の番組にもゲストとして出演された程の該博な知識の持ち主でした。退官後も各省の役人がよく所沢・長島法律事務所の顧問室に来て、林さんに相談していました。私が帰国後すぐに林さんを顧問に迎えたわけは、留学中に米国では立法過程が法令の解釈の重要な根拠になっていることを知り、日本でもやがてそうなるであろうから、日本の立法過程の生き字引のような林さんに顧問になって頂ければ、所沢・長島法律事務所の一つの強みになるだろうと考えたことによります。しかし、私のその見通しは誤っていました。林さんにはその後23年もの間顧問を勤めて頂きましたが、立法過程が所沢・長島法律事務所の仕事で重要な問題になって林さんに力になって頂けたのは、上記の三菱油化の税法問題ぐらいで、林さんには専ら様々な官公庁の多くの人々に紹介して頂くという点で大変お世話になったのでした。因みに、林さんは私が在籍した旧制東京高等学校の2回生で私より17期先輩でしたが、私は面識がなかった為、1回生で当時三菱化成の社長をしておられた篠島さんという先輩を通してお願いして、快諾して頂いたのでした。上記の吉田二郎氏も東京高校の先輩でした。

それにしても、スピードと伊藤新子さんが忙しく働くような仕事はありません。そこへ降って湧いたように思わぬ仕事が来るようになり、スピードも伊藤新子さんも急に忙しくなりました。といってもそれはやはり労働の仕事でした。具体的には外国の航空会社の労働組合が次々に羽田飛行場でストライキを始めたのです。そして、福井さんが第一線に立ち、スピードと私は経営側のトップである外国人(殆ど米国人)のマネージャーと頻繁に連絡し合って助言し、英文のメモランダムもせっせと作成してクライアントに送るということになったのです。初めはノースウェストでした。随分人使いの荒い米国人のマネージャーでしたが、福井さんとスピードのおかげで私達の仕事ぶりが気に入ったらしく、その推薦で今度はパン・アメリカンの米国人のマネージャーが数人の日本人の部下と共にやってきました。そして、他の外国航空会社も評判を聞いて相談に来るようになったのです。当時は既に経営側の労働弁護士は沢山いたのですが、外国企業の外国人経営者が納得できるように英語で労働問題について相談に乗れるし、緊急事態にも即応できるという人は、多分いなかったのだろうと思います。

[2002年12月執筆]
(つづく)