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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第19回 渉外事務所へ

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第19回 渉外事務所へ

羽田空港の外資系航空各社の労働争議により、私達は随分忙しくなりましたが、間もなく労働事件だけでなく、待ち望んでいた渉外案件も次々に頼まれるようになりました。例えば、商法の泰斗東大の鈴木竹雄先生から電話の御依頼があり、弟さんの一人である泰雄さんが長野県上田市で経営しておられる多摩電気という電気抵抗器を作っている会社がTRWという米国の大会社から受けていた技術ライセンスの契約期間延長交渉に、泰雄さんとロサンゼルスに出張してTRWと交渉をしたり、Cleary Gottliebが次々に紹介してくれた米国の企業のために日本のいろいろな企業と主にライセンス契約交渉をしたり、これもCleary Gottliebに聞いたのでといって依頼してきたTexaco Inc.のために、三井石油化学とノーマル・パラフィンを製造する合弁会社を設立するプロジェクトで、Texacoの交渉団の一員として、三井石油化学と約2週間に亘り交渉したりしました。その頃さらに、私は思いがけなく、輸出入取引法に基づいて設立されていた日本鉄鋼輸出組合の法律顧問に就任しました。当時、日本からの主要な輸出品は既に繊維のような軽工業品から重化学工業品に移っており、中でも鋼材は重要な輸出品で、とりわけ米国はその最も重要な市場になっていたのですが、当時の多くの鋼材輸出担当者がゴルフにたとえて嘆いていたように、「米国市場は右へ外れれば反ダンピング法でOB、左へ外れれば反トラスト法でOB、フェアウェイが本当に狭い。」という法規制上の難しさがありました。そこで、鋼材輸出に携わる全鉄鋼メーカーと全商社からなる日本鉄鋼輸出組合は、Washington D.C.のStitt & Hemmendingerという日本の対米輸出問題専門の法律事務所をロビイスト兼法律顧問にして緊密に連絡をとり、助言を受けていたのですが、輸出量の増大に伴って法律問題も増加し、日本にも法律顧問を置くべきであるという意見が高まったのだそうです。そこで、事務局の担当者がしかるべき日本の弁護士を推薦してもらうべく外務省の北米局に相談に出向いたところ、相談に乗ってくれた外交官が偶々小杉照夫という私と旧制東京高校同期で非常に親しかった友人で、「長島という弁護士が米国留学を終えて帰ってきているから会ってみてはどうか。」と示唆したそうで、輸出組合からすぐ連絡があり、久松町にあった輸出組合の事務所に招かれ、当時の八幡製鉄と富士製鉄(両社はその後合併して現在の新日鉄になりました。)のそれぞれの輸出部次長の面接を受け、その後すぐに正式に顧問契約を締結し、仕事が始まりました。仕事の内容は、米国のStitt & Hemmendinger(因みにHemmendinger氏は元国務省のJapan Deskの課長でした。)から日常的に輸出組合に送られてくる情報、助言を消化し、質問やら新しい調査要求を作成するのを手伝うことでしたが、当時は鉄鋼の大メーカーや大商社といえどもまだ米国の法規を理解する力も英語の力も一般的に余り強くはなかったので、私程度の力量でも随分重宝がられ、メーカーと商社の輸出部長会議や、その下のワーキング・グループの会議に頻繁に出席を求められ、Stitt & Hemmendingerとの直接の接触と信頼関係も深まり、その一つの副産物としてコロンビア大学ロー・スクールに留学中であった穂積さんが、ロー・スクールの修士課程終了後、鉄鋼輸出組合の要請によりStitt & Hemmendingerにスタジエールとして勤務されました。そうこうするうちに、日本からの過去数年間の鋼材輸入全般につき米国関税法違反容疑という日本の鉄鋼業界にとっての大問題が起こり、私は対策会議に出席するため、輸出組合に殆ど日参し、また駆けつけてきたStitt弁護士の通訳をも勤め、Stitt弁護士と共にWashington D.C.の連邦政府関税局に出頭したりしました。結果は、Stitt弁護士の助言に従って、八幡製鉄の稲山社長等業界首脳の英断と通産省の支持により採用した "voluntary full disclosure"という基本方針とその誠実な実行が連邦政府関税局の心証をよくし、日本の鉄鋼業界にとっての打撃は最小限度で済んだのでした。

輸出組合関係のこれらの仕事のお蔭で、渉外弁護士という認知度が高まったことは否定できず、例えば当時の岩井産業(その後の合併により現在の日商岩井)という商社から様々な渉外案件の相談を持ち込まれるようになり、また同社系列の徳山ソーダ等のいくつかのメーカーの渉外の仕事も頼まれるようになりました。そんなわけで、所沢・長島法律事務所に渉外の柱を立てることに目途がついたこともあって、翌1965年4月には、修習生を一度に3名採用しました。外山興三、石沢芳郎、三笠禎介の3氏で、いずれも渉外志望でした。果たしてゼロから出発して、所沢・長島法律事務所は渉外部門を樹立できるかどうか、あれ程心配していたのに、仕事がなかったり、仕事が入るようになっても不安だったのは帰国後の僅か3、4ヶ月で、曲りなりにも渉外事務所として認知されるようになり、どうやら自信めいたものも生じて新人弁護士を一度に3名も採用できるようになった理由としては、第1に、所沢さん、大野さん、福井さんをはじめ、事務所の同僚弁護士の全面的な理解と協力を挙げなければなりません。当時の事務所にとって、渉外の仕事が一体物になるのかどうか、海のものとも山のものとも知れないのに、誰一人として懐疑的、批判的な意見を述べることはなく、私を信頼して一切を任せて下さり、それぞれの持場持場に応じて協力して下さったことです。例えば、一つしかなかった応接室をスピード・キャロルと私と伊藤新子さんの三人のオフィスにしたため、応接は廊下を衝立でいくつかに仕切った狭いところだけとなり、皆さんがどれ程不自由を感じたことかと思います。今考えても、よくもあれだけ徹底して信頼し、協力して下さったものと感謝に堪えません。

第2の理由は、留学を終えて帰国した時期が日本経済の高度成長と国際化の開始後間もない時期に当たっていたという幸運です。もし留学が5年も早かったならば、帰国しても渉外の仕事は量的に未だ外国人弁護士事務所だけで十分処理されていたでしょうから、結局元通り国内案件に専念せざるを得ず、そのままになっただろうと思われます。また、5年も遅ければ、留学帰りの日本人弁護士は余り珍しくなくなっていましたから、あれ程早くあれ程多く仕事が来ることはなかったかもしれません。

第3の理由は、スピード・キャロル弁護士とセクレタリーの伊藤新子さんに、ニューヨークから来てもらったことです。スピード・キャロルの貢献についてはこれまでも何回も触れてきましたが、上述の日本鉄鋼輸出組合の仕事も、Stitt & Hemmendingerからひっきりなしに送られてくる大量の情報を迅速的確に消化し、メーカー・商社各社に解説し、また輸出組合のために同事務所に作業の指示を命ずるという作業は、スピード・キャロルの助力なしには到底できないことでした。当時、日本の法律事務所が米国人弁護士を雇用することは、多分どこも行っていなかたっためと思いますが、その頃日本で仕事をしていてよく知られていたある米国人弁護士に、私は"path finder"であると言われたことを覚えています。私にはそのような意図は全くなく、やむを得ず考えて実現したことだったのですが、いずれにせよ、このスピード・キャロルの貢献が極めて顕著であったため、所沢・長島法律事務所(後のN&O)はその後も一貫して常にスタジエールを置くことにし、それが現在のNO&Tにまで続いているのです。因みに、スタジエールはフランス語の stagiaireで、Cleary Gottliebが実務修習の外国人弁護士のために用いていた言葉をN&Oがそのまま使うようになったのです。

次に伊藤新子さんは、前に書きましたようにニューヨークの大蔵・日銀駐在員事務所のセクレタリーをしておられたときに、Milbank Tweedにいた私がお会いし、来て頂いたのです。伊藤さんのセクレタリーとしての力量は大変なもので、bilingual secretaryとしての事務処理能力の高さは勿論、例えば英文タイプにしましても、当時の電動タイプライターでは、今のワープロないしコンピュータと違って、打ち損じは消しゴムで消して(これもカーボン紙を挟んで何部も打つのですから、大変です)打ち直すか、又はそのページを初めから全部打ち直す外ありません。スピード・キャロルはCleary Gottliebのウォール・ストリート・スタンダードを要求しましたから、消しゴムによる訂正は嫌います。ある晩、スピードの手書きの大量の原稿を、伊藤さんが大変なスピードでタイプしているのを見ていましたが、仕上がりで10数ページの文書を一字の訂正もなく1回の打ち直しもなく完璧に打ち上げ、スピード・キャロルも感心していたことを覚えています。このような伊藤さんの非常に高いレベルは、その後増加の一途を辿ったN&Oのセクレタリー等職員に高い水準を求めることを促しました。そしてそれは事務所のnormとなって、現在のNO&Tの各種職員の水準の高さに続いていると思います。私が企業や官庁に電話をして往々感ずるのは、職員の電話の応答に現れる躾の悪さと知性の低さで、その度に我々の事務所の職員では考えられない応対だと感じます。私はこのような伊藤さんとスピード・キャロルの二人に助けられなければ、渉外弁護士としてあのように順調なスタートを切ることは、決してできなかったと思います。

第4の理由はCleary Gottliebの好意です。これまでも再三触れましたが、Cleary Gottliebはスピード・キャロルが居たからに違いありませんが、次々に米国のみならず欧州のクライアントをも紹介してくれ、また例えばTexaco Inc.のようにクライアント以外の企業にも所沢・長島法律事務所を紹介してくれました。そしてそれは、スピードが1965年夏に離日した後も長く変わりませんでした。

第5の理由は、私が留学中にロー・スクールの勉強だけでなく、ボストンのHale & Dorr 特にウォール・ストリートのMilbank Tweedで短期間とはいえ実習することができたことです。力不足だったので、折角与えてもらった機会を十分に活用できたとは思いませんが、それでもその体験は、帰国して渉外の仕事を始める上でどれ程役に立ったか計り知れません。(その上、私は前にも記しましたように、留学前に8年間も弁護士として働いていましたし、小なりといえども法律事務所のパートナーでしたし、年齢もそれだけ高くなっていましたから、両方のロー・ファームともある程度一人前の弁護士として扱ってくれ、ロー・ファームの組織と運営について学びたいという私の希望に好意的に応えてくれました。また帰国後もMilbank Tweedのパートナーが来日すると、家内と私を夕食に招いてくれたり、有力な知人に紹介してくれたり、それらの厚意には今も感謝しています。)そのため、私は事務所の弁護士皆が米国のロー・スクールに行くだけでなく、それに加えてロー・ファームでの実務修習を経験するようにすべきであると固く信じるようになりました。事実、我が事務所ではその後一貫してその通り実施されるようになって今日に至っています。また、それは外の事務所の弁護士にとっても決まりきったパターンになって、30年以上も続いていますが、当時は殆ど初めてのことだったのです。

第6に、旧制東京高校の友人・先輩の好意を挙げなければなりません。林修三さんや外務省の友人小杉氏のことは既に書きましたが、昨今と違って当時渉外の仕事といえば通産省、大蔵省、日銀等への様々な接触が不可欠でしたが、そのどこにも旧制東京高校の同級生や先輩がいて、常に親切に助力してくれました。元々東京高校は非常に都会的で"東高 individualism"などと言って一高などと異なり、同窓生間の結束を田舎臭いというか、いささか小馬鹿にする嫌いがあるのですが、私は同窓生に大変助けられました。

第7に、臆面もなく正直に言いますと、私自身の勤勉さも或いは理由の一つとして挙げられるかもしれないと思っています。私は帰国後、渉外が本当に一つの柱になったと感じられるようになるまで、出張中と年末年始を別にすれば、土曜は勿論(当時は土曜は事務所では午後3時までを就業時間としていました)、日曜を含めて事務所に出なかった日は殆どありませんでした。そのことは自分では別に苦労と思っていなかったせいかすっかり忘れていましたが、当時小学生だった長男が後年、「大人には日曜日はないのだと思っていた。」と話してくれ、当時を想い出したことでした。或る日曜日に事務所に出て仕事をしていたところ、机上で予定外の電話が鳴り、出てみるとノース・ウェスト航空の日本の米人支配人で、内容は忘れましたが彼にとっては急ぎの問題について、その場で助言することができたことがありますが、彼は「日曜日なのに事務所にいてくれてよかった。」とは一言も言わなかったことをはっきり記憶しています。彼にとっては、私が日曜日でも事務所にいることは当然だったのです。

ただ、このような日本の旧海軍の艦隊勤務の一時のスローガンであった「月、月、火、水、木、金、金」式のやり方については、私は他人に要請したことはなく、また望ましいこととも思ってはいませんでした。それで思い出しましたが、1965年か66年に、日本でも土曜日を休みとする企業が出始めた時、私は既に事務所の経営はかなり安定したと判断し、土曜日を全休としたのですが、「長島さんはせいぜい土曜日を半ドンにする位だろうと思っていたので驚いた。」と穂積さんがいわれたとのことを、当時のスタジエールから聞かされ、そうだったのかと思ったことでした。そして土曜全休に踏み切って皆が喜んでくれたのは勿論ですが、私自身驚いたことは、その前に比べて事務所のbillable hoursが少しも減らなかったことでした。

さて、1965年4月には新人弁護士を3名採用したこともあり、渉外の仕事も軌道に乗り始めたので、当時の銀座の中小企業会館の中のオフィスでは手狭となり、移転を考えざるを得なくなりました。ここでも旧制東京高校のある先輩が、青年会議所仲間の虎屋の黒川さんのところで赤坂にビルを建てていて、一部を貸しビルにするそうだから当たってみたらどうか、と言ってくれました。早速物件を見に行きましたところ、当時は赤坂見附から豊川稲荷の交差点までの青山通りには3階より高い建物はなく、9階建の虎屋の新築ビルだけが聳えていました。しかし、地下鉄の赤坂見附の駅からは上り坂で7、8分の距離にあるところが気懸りでした。事務所に地下鉄で来られる依頼者の方々にかなりの負担になると恐れたのです。そして決心がつかないまま、またしても旧制東京高校の大先輩の篠島さん(当時三菱化成社長)に相談に行ったところ、言下に、「虎屋ビルといえば大通りに面している上、タクシーの運転手もすぐ解る。(法律事務所として無名のうちは)それが大事だ。」と言われ、成る程と感心してその場で決心し、1965年のゴールデン・ウィークに引っ越すことになりました。

[2003年2月執筆]
(つづく)