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第20回 虎屋ビルへ

1965年のゴールデン・ウィークに、所沢・長島法律事務所は銀座の中小企業会館から赤坂の虎屋ビルに移転しました。それから実に24年の長きに亘り、旧N&Oは虎屋ビルの中にありました。勿論、その間に旧N&Oの規模は徐々に、しかし着実に拡大して行きましたので、当初の2フロアー弱では足りなくなり、その他のフロアーを本館だけでなく後から建て増しされた新館でも借り増して行き、加えて近隣のビルにも分室を出して行ったのですが、24年もいる間にN&Oといえば「あゝ虎屋ビルの」と印象付けられた人が随分の数になったように思います。その点で、前回に記した先輩篠島さんの助言は正鵠を射たものであって、つくづく感心し、感謝したのでした。そういえば現在の紀尾井町ビルに移ってから何年も経った或る日、東京地裁特許部の和解期日に梅澤さんと中島(菜子)さんと三人で出頭したところ、裁判長の三村判事から「事務所は虎屋でしたね。」と云われ、虎屋ビルを出てから10年以上も経っていたので少々驚きました。三村さんは、或いは修習生時代に虎屋ビルの旧N&Oに見学に来られたのかも知れません。三村さんのように正確に記憶していなくても、「あゝ、長島・大野事務所は虎ノ門にありましたね。」というそそっかしい人が今でも少なくありません。何にしても、それほど旧N&Oと虎屋ビルは深く結び付けられていました。

さて、その虎屋ビルについて少々話してみましょう。御承知の人も多いでしょうが、虎屋は創業400年の歴史を誇る日本最古の菓子舗として知られています。京都に在って長く皇室の御用達でしたが、明治天皇の遷都に伴って東京に進出し、赤坂は豊川稲荷の隣に二階建のどっしりとした和風の店を構えていたところ、1964年の東京オリンピック開催に伴う青山通り(246号)の拡張にかかって真向いの現在地にビルを新築することになったのです。そして設計も施工も鹿島建設で、同社の若い建築士の行灯をイメージしたデザインが採用されたのです。当時の虎屋の社長は東大の文学部美学科を出た人で、その独創的なデザインが大変気に入ったようでした。そうは言っても昼間に虎屋ビルを見ても、行灯のイメージはあまり浮かばないでしょう。しかし、暗くなると2階から9階までの窓を等間隔でぐるりと取り巻いている帯の内側にあるネオンに電気がつき、そこから間接照明で薄紫の柔らかな光がビル全体を幻想的に浮かび上がらせるのです。(今これを書いていて、はっと気付きましたが、薄紫の光の色は羊羹の原料である小豆を象徴していたに相異ありません。40年間も経て今頃漸く気付くとは、我ながら呆れたものです。)このデザインは、その年に東京都知事賞を受けたということでした。残念なことに、このネオンは私達が入居して数年後から点灯されなくなりました。デザインの着想は確かに独創的で優れていたと思いますが、実施設計に難があったと見え、故障続きで虎屋さんでも手を焼いていたのでした。

それから40年経った現在、虎屋ビルは老朽化し、付近のビル、とりわけ総ガラス張のソニービルや緑の美しいカナダ大使館などに較べるとすっかり見劣りのするビルになっていますが、私達が引越した当時は、前にも書いたように周辺で唯一の高層ビルであり、質としても優良なビルだったのです。それに、景観の点では眼下の東宮御所の庭の樹々が四季折々に美しく、西の彼方に丹沢の山々と富士を望むという申し分のなさでした。

そのように、虎屋ビルはそれまでの中小企業会館に較べて多くの点で格段に優っていましたので、内装もそれに相応しいものにしたいと思っていましたところ、予想もしていなかったことにスピード・キャロルとその妻のマーサが新事務所の内装に非常な関心を抱き、それまでに蓄えていた知識を基に、実に有難い熱心な助言者となってくれたのでした。(二人は、好きなことを自分達のお金ではなくて事務所のお金でやらせて貰えるので有難いといってくれ、お蔭で私はその時に"vicariously"という単語を覚えました。)まず私達は既に虎屋ビルの9階に入っていたJohnson & Johnsonのオフィスを見せて貰いましたところ、たっぷりお金をかけたと思われる実に贅沢なそして重厚な内装でした。私達は、Johnson & Johnsonと張り合って贅沢することなど経済的にできるわけはなかったのですが、その重厚な雰囲気は法律事務所に相応しいものと思えましたので、限られた予算の範囲内でそれに近くてしかもシックな雰囲気を目指すことにしました。そして絨緞は奮発して住之江織物のかなり厚手の上質なものを選び、色は思い切って紺青にしました。そして間仕切りのパネルはローズウッドとすることにし、スピードは倉庫に出掛けて一枚一枚気に入ったものを選んでくれました。絨緞の紺青色とパネルのローズウッドの色との調和は最も重要ですから、私達は忙しい仕事がありながらも随分時間をかけました。そのようにして、虎屋ビルの8階全部と7階の3分の2を1人用オフィス8、2人用オフィス3、会議室1に間仕切りし、かけた金額の割合にはかなり満足できる落着いた感じのシックな所沢・長島法律事務所が出来上がりました。現在NO&Tに在籍する弁護士で虎屋ビルの旧N&Oのオフィスを覚えているのは、修習生としてインタビューにやって来た井上聡さん、井上広樹さん、斎藤亜紀さんまでと思います。

そのような新しい事務所に引越して来て、皆の士気は確かに昂まりました。今から考えると、1階は虎屋の暖簾を掲げた店でしたからオフィスの入口はその横手の駐車場側にあり、手洗は狭く、また先に述べたネオンをビルに廻している帯が窓からの折角の景観を邪魔しているなど缺点もあったのですが、それはその後に続いた日本経済の高度成長につれて大きく向上した今の基準で見るからに外なりません。当時の私達は満足していたのです。

さて仕事の方は、虎屋ビルに移ってからも引き続き順調でした。労働関係では林野庁の東北斗爭に係る人事院の公平審査のために、若い弁護士も含め殆どの弁護士が大野さんと福井さんを助けて東北の各地に出張し、克明に事実を調査したり、準備書面を作成したり、敵愾心に燃える組合側を相手に証人尋問の用意をしたり、膨大で辛い作業に携わりました。それは所沢・長島事務所に入って来る若い弁護士にとって避けては通れない洗礼のようなもので、それによって弁護士としての緻密さ、粘り強さ、逞しさを身に付けて行った人も少なくなかったと思います。渉外関係では、前回に記した通り1965年4月には外山、石沢、三笠の3弁護士が加わり、穂積さんが帰国されたりで人手も揃ってきましたし、上智大学や日米会話学院等から英語好きのセクレタリーを採用することを始めたりして、仕事の拡大に対処できる態勢が整って行きました。

スピード・キャロルは1965年の8月に1年の契約期間を終えてCleary Gottliebのニューヨーク事務所へ帰って行き、その後に2人目のスタジェールとしてRobert NebrigというStanford University Law Schoolを出たての青年がやって来ました。その経緯は、当時フルブライト委員会の日本の事務局長をしていた西村巌という人から或る日突然私に電話があり、実は自分の娘がSatnfordのlaw studentと結婚したので、娘婿を所沢・長島法律事務所で採用してくれないか、と頼んで来たのでした。そこで早速、サンフランシスコに住んでいた親しい友人(Harvard Law Schoolで親しくなったteaching fellowの一人で、その時はStanfordで都市計画の専門家になる為の勉強をしていました。益々余談になりますが、彼は後にサンフランシスコ市に勤め、市のスカイラインの美しさに貢献しました。)にインタビューをしてもらい、その報告を信頼してNebrig氏を採用したのです。やがて来日した彼は真に気の良い明朗な青年で、多くの人に好かれ、旧N&Oの渉外の仕事を伸ばして行く上で戦力になってくれました。

それにしても帰国して渉外を始めて1年も経たないうちに、少なくともフルブライト委員会の事務局長が上記のような依頼をして来る程度には渉外事務所として知られるようになっていようとは、帰国前には想像も出来なかったことであり、前回に記したような多くの幸運に恵まれたことに感謝せずにはいられませんでした。

[2003年4月執筆]
(つづく)