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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第25回 分裂(その一)

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第25回 分裂(その一)

東京ヒルトンを廻る仮処分合戦で勝利を収めた翌年の昭和43年(1968年)12月に、所沢・長島法律事務所は分裂し、所沢さんは4年目のアソシエイトであった石沢芳朗さん、三笠禎介さんの両名と3年目のアソシエイトであった中村誠一さんと共に計4名で虎屋ビルを離れ、別に所沢道夫法律事務所を開き、残された私達は長島・大野法律事務所と名称を変えて、引き続き虎屋で業務を続けることになりました。当時、大野さんは既にニューオリーンズのチューレーン・ロースクールに留学中でしたので、旧N&Oの実働弁護士は、長島、福井、山崎、穂積、田中、外山の6名に激減しました。この分裂は、私の長い弁護士生活の中で、最も苦い、二度と繰り返したくないと思った試練でした。分裂の最大の原因は、当時、福井さんを相談相手として事務所の経営に当っていた私と、既に殆ど弁護士実務を離れ、東京都労働委員会の公益委員、次いで委員長となり、更に中央労働委員会の会長となって行った所沢さんとの間の、広い意味での弁護士倫理についての考え方の違いでした。

そのことについて、ここで述べることは差し控えますが、やがて事務所の中の雰囲気が徐々におかしくなって行きました。所沢さんが、何人もの若いアソシエイトと共にドアを締め切った部屋に籠って長時間何か打ち合わせているようなことが、よくあるようになりました。そして或る日、所沢さんから、その日の夕刻東京會舘の1階のバー(今の建物はその後に改築されたものです。)で会おうとの伝言を受けました。そのバーのカウンターで、所沢さんは私に対し、「長島君、僕と君の二人で作って来た事務所ではないか。別れるに忍びない。」と言って目に涙を浮かべ、握手を求めました。それからの所沢さんの話は、「しかし、皆にとって一番いいのは円満に別れて自分が別に事務所を開くことである。ついては若い弁護士を何人か連れて行きたい。又、新事務所開設の敷金・保証金等としてこれこれの金額が必要なので、至急に払ってほしい。」ということでした。私も、事ここに至ってはそれがよいと考えましたので、アソシエイトの誰々を連れて行くかということは敢えて尋ねませんでしたが、至急に払って欲しいと言われた金額の大きさ(当時の事務所にとっての)に驚きました。しかし、そのことで交渉するのは避けたいと思い、すべてを承知して、東京會舘を出ました。

翌日、事務所に出て、所沢さんに付いて行くアソシエイトの名を報らされましたが、その中には前記の石沢、三笠、中村の3氏の外に、田中隆さんが入っていました。田中隆さんは長野県の出身の大変な努力家で、第一法規に勤めながら司法試験に合格し、司法研修所を出るとすぐに所沢・長島法律事務所に入って来たのです。それは、前に記したように、私が弁護士になってすぐに第一法規の判例大系の編集を手伝うことになり、第一法規の判例大系編集室に机を与えられて毎週何日か出勤していたので、互いに相識るようになっていた為でした。私は田中さんが私達を見限って所沢さんに付いて行くと決めたことに衝撃を受けましたが、その誠実な人柄と堅実な仕事ぶりからいっても、田中さんには是非残って貰いたかったので、その旨を田中さんに率直に話しましたところ、幸いにも田中さんはすぐに快諾してくれました。田中さんは、事務所が渉外に重点を移して行くようで、国内案件中心の自身の将来に不安があったとのことでした。田中さんを除いても、所沢さんには3人のアソシエイトが付いて行くので、所沢さんが困ることはないだろうと考えたのですが、果たして所沢さんからは、そのことについて何の苦情もありませんでした。

次の問題は、所沢さんに支払いを約束した金額でしたが、それも工面してすぐに全額を整えて所沢さんに支払いました。驚いたことに、東京會舘での話し合い以後は、にこやかだった所沢さんが、支払いがすむと態度を一変させました。その後は私に一言の言葉をかけることもなく、慌しく3人のアソシエイトと共に、新事務所に移って行き、以後、私は所沢さんと一度も会うことはありませんでした。所沢さんのそのような仕打ちに、私は長い間、憤慨していていましたが、今になって考えると、私の方にも至らぬ点があったことは否めません。所沢さんは労働委員会に行っていることが多く、私や福井さんはそれぞれ毎日の仕事に集中せざるを得ない状況が数年続いていたので、今風にいうと「対話」が決定的に不足していたと思います。同じことは、所沢さんに付いて出て行った若いアソシエイトについても言えるでしょう。当時、後輩の弁護士に対する私の指導は厳し過ぎるということを、耳にすることはありましたが、それよりも、若いアソシエイトの一人一人の身になって、どんな希望と不安をもっているかを考えるということを殆どしなかった結果であろうと思いました。また、昭和39年(1964年)帰国以降、予想もしなかった早さで渉外事務所として認知されるようになったことから、私自身、慢心して、自己中心主義的になっていたことも確かでした。

いずれにせよ、こうして図らずも私達は、長島・大野法律事務所という新しい名称で再出発することになったのですが、前途に対して私は少なからず不安を抱いていました。

[2004年10月執筆]
(つづく)