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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第5回 蠣殻町時代のこと(この回は大野義夫弁護士の著です)

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第5回 蠣殻町時代のこと(この回は大野義夫弁護士の著です)

長島さんの要請で、私が蠣殻町の所沢事務所に入った頃のことについて、急に筆をとることになりました。当時のことはこれまでに、長島さんの名筆で詳細に生々と描かれているので、それ以上付け加えることは殆んどないのですが、私なりに思い出すことをあれこれと書いてみることにします。

私が所沢事務所に入ったのは1954年4月のことです。これは前年の暮近くに、長島さんにお会いしたのが切っかけでした。もともと弁護士になる積もりで6期の司法修習生となったのですが、実務修習地が住まいに近い千葉だったので、後期になって司法研修所(今の紀尾井町ビルの場所でした)に戻った頃から、適当な事務所を探し始めました。それで海経(海軍経理学校)時代の学年指導官であった前田孝充郎氏(元海軍主計中佐)にご相談したのです。前田さんは戦前、海軍の委託で東大法学部のの選科学生として法律を専攻し、海経時代に海軍の法制を教えて下さった方です。法学部の教授方と親しく、戦後は有斐閣で六法全書などの編集をされ、その頃は第一法規で判例体系の編集に当たっておられました。前田さんのご紹介で、最初は三輪寿壮事務所の柴田博氏(東大法卒、3期)を訪ねました。柴田さんは海兵68期出身で、海軍では6期先輩の方だったので、色々話がはずんだのですが、あいにく事務所に欠員がないとのことでした。

どうしたものかと思っていたところ、12月下旬前田さんからのご連絡で、当時の国策パルプビルで柴田さんとともに、長島さんに始めてお会いしました。お2人とも判例体系の仕事に関係されており、長島さんは民訴法の判例を担当しているように伺いました。その席で長島さんから所沢事務所の話が出て、希望があるならば事務所に来てみてはどうかとお誘いを受けたのです。事務所の名は全く知らなかったのですが、お2人の闊達な話、特に長島さんの切れ味鋭いお話に非常に強い印象を受け、こういう方と一緒に仕事をすることができるならという気持ちが湧きました。それで大晦日も近付いた日に、蠣殻町の所沢事務所を訪問し、長島さんから事務所のこと、仕事のことなど詳細な説明を受けました。そのあと所沢さんにも初めてお目にかかりました。温厚な品のある紳士でした。この日でほぼ気持も固まったのですが、翌年の1月になって事務所に入ることが正式に決まりました。その足で、所沢さん・長島さんのお2人に川向こうの森下町の"みのや"という古い店に連れて行って頂き、サクラ鍋のご馳走にあずかりました。こうして4月から弁護士としての道をスタートしたのですが、長島さんにお会いしたことが決定的な機縁でした。

所沢事務所のあった日本橋蠣殻町は、証券取引所のある兜町の道を通り抜け、鎧橋(今では地名だけかと思います)を渡ったあたりの、新大橋通りに沿った下町です。近くに水天宮がありますが、新大橋通りの一路裏の横町に事務所がありました。長島さんが描写しているとおり、事務所は大正時代に建築の古い建物でしたが、戦災に残った落着きと古風な静けさがありました。それにしても、建物への上り下りには靴とスリッパを履き替える必要があり、丸の内や銀座あたりのビル街にあるオフィスとは全く違う趣きでした。長島さんとは1階で部屋を接して仕事をしたように記憶していますが、私が入った頃には、法学部の夜間に通学する学生が2名、高校を出た許りの若い女性のタイピストが1名、私たちの仕事を補助してくれました。仕事の方は、長島さんがご自分の依頼者関係で手一杯だったので、私がイソ弁として所沢さん関係の仕事を殆んど一手に扱うことになり、長島さんの仕事もいくつかお手伝いすることになりました。当初の月給がいくらであったか記憶がないのですが、3年後に結婚したとき妻に渡したのが21,000円位いだったということなので(イソ弁としての固定給を渡していました)、おそらく長島さんと同じ月16,000円で始まり、その後1回位い増額されたものと思います。個人事件を扱うことは自由でしたが、私の場合、最初の頃は大した仕事もなかったのです。

所沢事務所の仕事については、長島さんが的確に書いておられるので、特に付け加える程のことはありませんが、中小企業や個人関係のほか協同組合の仕事が割に多かったのが特色です。大企業関係は1、2を算える程度でした。(所沢さんは余暇を利用して、中小企業等事業協同組合法の本を初期の段階に書いています。その関係で数年後のことですが、京都祇園のお茶屋組合に関する興味ある事件を扱いました。)仕事の内容は、裁判所を中心とする典型的な民事弁護士の業務で、入所早々仮処分手続や強制執行手続に直面しました。神田に行って最初に買い込んだ本は、これらの手続に関する書式全書だったのです。所沢さんは主として依頼者の応接にあたり、仕事については殆んど私に一任されたので、判らないことや疑問を生じたことは全て長島さんに相談し、教えを受けました。長島さんは訴訟法について鋭い理論家でしたが、実務についても詳細な覚書ノートを作成しておられ、それを拝借して驚いたことを覚えています。私も何とか実務に精通する一方、何かの分野で理論的な勉強をしようと思ったものです。

当時、鎧橋の近くから東京地裁方面に直行するバスがあり、訴訟事件が多くなるにつれ、毎日のようにそのバスで往復しました。事務所への往き帰りは、最寄りの国鉄の駅から都電を利用しました。また事務所のごく近くに公証人役場があり、債務証書や遺言の作成などで常連のように出かけました。それで思い出しましたが、駆出しの頃に、魚小売商の協同組合が商工中金の融資で、小売商の店舗改造用に転貸した貸付金がかなり焦げ付き、公正証書に基づく動産執行を何件も行なったことがあります。魚屋さんの店に執行吏と一緒に入り色々な動産を差押えたとき、債務者の家族に泣きつかれてこちらまで惨めな思いがしました。何回か経験を重ねて、漸く冷静に処理することができるようになったものです。60年の安保改訂反対闘争の年に、事務所の仕事は労働事件を中心に大きく転換したのですが、私はそれまで自分の個人事件を含め、民事弁護士の仕事に専念してきました。今考えれば単純で細かい仕事が多かったのですが、得難い経験を積むことができたと思います。

蠣殻町時代は、法廷のある日を除いては朝の出勤はのんびりしたものでした。その代り夜は、依頼者や友人などと飲食をともにすることが多く、帰宅が午前になることもありました。長島さんのお伴をして葭町などの料亭に出向いたことも何度かありましたが、私は元来酒に弱いので、料亭に借金を作るようなことは不可能でした。長島さんは当時行くところ可ならざるはなしという勢いで、仕事にも遊びにも徹底していました。所沢さんも大変アルコールが強く、時々ご自宅に招待を受け矢沢教授にもお目にかかりました。所沢さんを含め3人でしたから、何事も家族的でオープンな雰囲気がありました。私の入った54年の暮に日本橋本町のビルに移ることになり、蠣殻町の古い事務所は幕を閉じました。

余談になりますが、私が弁護士を志すようになるには、かなりの曲折がありました。45年8月の敗戦後、生き残った旧軍艦で翌46年3月まで海外からの復員輸送の業務に従事しました。最後のご奉公の気持でしたが、色々な理由からクラスでも一番早い時期に退艦しました。4月に運よく経済学部に入ったのですが、その頃は法律には全く興味がなかったのです。しかし当時の学部はマルクス主義経済学が盛んで、学生運動や校内ストの中心でした。その風潮にはあきたらず、また50年12月末までは公職追放令の対象となり、企業に入る気もなくしたのです。その頃、海経時代にも教えを受けた石井照久教授に身の振り方をご相談したことがありました。そのとき、これからの時代に必要なのは一個の専門家であること、専門に徹することを通じて地についた考えを身につけることが大切だと、諭されたのです。それで初めて弁護士となることを考え始め、法学部に入り直したのです。海軍で公給を貰った者として、国から再び公給を受けることは考えませんでした。

しかし、弁護士となってどのような分野を専門とするかについては明確な考えがなく、与えられた仕事を一生懸命やることだけに集中してきました。当時の事務所が今日のNO&Tに発展したのは、社会情勢の変化による面もありますが、何といっても長島さんの卓見によるものです。私はその流れに遅れまいと努めてきただけです。現在の若い方々が入所早々高度の難しい仕事に遅くまで取り組んでいる姿には、全く頭が下がる思いがしますが、私の駆出し時代に比べて羨ましいような気もします。どんな仕事でも自分で苦労して立ち向かうことで、貴重な経験として活きてくると思います。

[1999年12月執筆]
(つづく)