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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第7回 室町3丁目時代(その一)

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第7回 室町3丁目時代(その一)

前にも触れたように、1954年(昭和29年)に所沢さんが先代からの事務所があった蛎殻町の土地建物を売却したため、私にとって想い出の多い蛎殻町の事務所はその年の暮に閉鎖され、所沢法律事務所は翌1955年1月に、室町3丁目交叉点近くの加嶋高館ビルという4階建の小さな新築ビルに移転しました。室町3丁目時代に移る前に、蛎殻町時代の想い出を、もういくつか書いて置きましょう。

1954年4月に大野さんが入所して来たとき、先ず驚かされたのは稀に見る穏やかな人柄と緻密な仕事ぶりに加え、そのヘビー・スモーカーぶりでした。その頃の大野さんはパイプに凝っていて、始終パイプをくわえながら仕事をしていましたが、煙の香りはいいし、恰好もいいので、私は即ち影響を受け、真似をしたくなりました。そこで大野さんに、私も紙煙草からパイプ煙草に切り換えてみようかと思う、と話しましたところ、親切な大野さんは、大変喜んで自分のお古のパイプを2本とパイプ煙草一罐を、翌日持って来てくれました。そのパイプの吸い口には、永年噛みしめながら愛用したらしい大野さんの歯型がくっきりついていましたが、私は有難く頂戴し、それから暫くは何時もパイプをくゆらせて悦に入っていました。しかしパイプにはヤニ掃除が欠かせませんし、段々面倒になってきて何時とはなしに止めてしまい、元の紙煙草に戻ってしまいました。

大野さんとは仕事部屋は別々でしたが、昼食は何時も一緒に近くの食堂に行きました。今と違って、仕事を兼ねて依頼者その他外部の人と一緒に昼食をとることは全くありませんでした。朝食に至っては尚更のことです。大野さんと一番頻繁に行ったのは、事務所から20歩位しか離れていない「栄楽」というラーメン屋でした。この店は今も健在です。

その頃は、土曜日も休みではなく、午後3時までは勤務時間でした。それが終った後、二人で水天宮の縁日の店を見て廻ったり、パチンコをして遊んだりしたこともあります。思えば、のんびりとしたよい時代でした。

蛎殻町時代で、もう一つ私にとって忘れられない想い出があります。大野さんが入所する前のことと記憶しますが、土曜日の仕事が終ってから、ひとりでテアトル東京というその頃京橋にあった映画劇場に入り、今でも名作としてテレビで時々放送される映画「旅情」を見ました。キャサリン・ヘップバーンが米国の田舎の小さな町の法律事務所で働く30代のセクレタリーという役どころで、夏休みに初のヨーロッパ旅行でベニスに行き、土産物のガラス細工店主で妻子のある男と束の間の恋に陥る、あの映画です。映画が終って劇場から出てきて都電の停留場へ歩いて行く道すがら、「あゝ、アメリカでは誰でも外遊できるのか。それにひきかえ、自分には恐らく外遊の機会は一生ないだろう。」と思ったことをありありと記憶しています。その頃は、まだ皆が貧しく、外貨は国にとって大変貴重なものでしたし、1ドル360円の時代でしたから、私費留学や私費外遊は全く無かったと思いますが、ガリオア資金(後にフルブライト資金)から奨学金を支給されて米国の大学で学ぶ日本人は出始めていて、私の友人でも何人も渡米していましたし、また、日本生産性本部というものがあって、米国企業の高い生産性を学ぶために、各種業界の人達が政府から外貨の割当を受け、団体を組んで、米国各地へ視察に出かけるようになっていました。しかし、仕事の上でも私生活の上でも、英語は愚か、いかなる外国語とも外国とも全く無縁であった私に、そのような機会が訪れることがあろうとは到底思えなかったのです。

振り返ってみると、真に先が見えていなかったわけで、今日では、外国旅行をしたことのない日本人を探すのは余り容易ではないと思われ、少なくとも「旅情」のキャサリン・ヘップバーンを、外国旅行ができて羨ましい、などと思う日本人は一人もいないでしょう。

それ程、日本は豊かになり、生活水準が上がっているのです。そのような状態になった時が、仮に1980年とすると、日本経済が徹底的に壊滅させられた1945年の敗戦から僅か35年で、奇跡的といわれる急速な経済の復興と高度成長を遂げたことになります。その原因を考えると、前にも触れたように朝鮮戦争で日本が膨大な軍需物資の供給基地になったことの外、米ソの冷戦構造に基く日米安保条約により日本の軍事費の負担が相対的に軽いものであり得たこと、大戦争のない時代が過去に例を見ない程長く続いた為に世界貿易が盛んになったこと等の、多く外的な僥倖が大きな原因であったことを、決して忘れてはならないと思います。日本人自身の貢献という点では、何といっても製造業に携ってきた人達の貢献が最大のものであったと信じます。造船、鉄鋼、電気・電子製品、自動車に代表される戦後の日本の多くの製造会社の中で、外国の技術を研究し、吸収し、開発・設計に当り、製造現場で1銭単位のコスト切り下げに日夜血の滲むような努力を続けて、高品質で国際競争力のある製品で輸出立国を可能にした名も無い無数の技術者、労働者の貢献こそが、日本の今日の繁栄をもたらした最大の原因であると、私は固く信じています。それらの人々に比べれば、ひと頃「優秀」ともてはやされた官僚の貢献は好意的にみても功罪相半ばするものでしたし、金融関係者が行ってきたことは今になってみれば本当に目も当てられないことが多くありましたし、また弁護士・会計士などの様々なプロフェッショナル達の貢献は、仮にあったとしてもしれたもので、殆ど一方的に製造業からの恩恵に与ってきたような気がします。

さて、室町3丁目の加嶋高館ビルにはエレベータはなく、狭くて急な階段を昇った4階は、30数坪の部屋と10坪程の2部屋があり、その大きい方が私達の所沢法律事務所でした。奥まった窓側の15坪程を仕切り、それを更に2つに仕切って、一方が所沢さんの部屋、他方が大野さんと私の部屋で、残りの20坪程に書生2人、タイピスト兼受付1人の計3人の机と、一寸した応接セットを置き、またファイル・キャビネットを数本置いて書類を整理して入れることができるようになりました。このファイル・キャビネットは、蛎殻町時代に矢沢先生の紹介で当時たしか飯野ビルにあったブレークモア法律事務所を見に行き、はじめて見て痛く感心し、室町3丁目の新事務所開設に当って購入したものです。その後のあるとき、矢沢先生が、日本の法律事務所を見たがっているという来日中の米国の弁護士を伴って来所されましたので、私は得々としてファイル・キャビネットを見せましたところ、その米国人弁護士は微笑して、自分の事務所にも置いてある、と言いました。今想い出しても恥ずかしいことでした。

室町3丁目の事務所で困ったのは、手洗は汽車式の小さなものが一つあるだけだったことでした。その外にも、私達の部屋は都電の電車通りに面していたので電車の騒音がうるさいし、風で埃は入ってくるし、書類は飛ばされます。さりとて窓を閉めると、その頃は冷房などありませんから、夏は暑くて堪えられないのです。仕方なく、扇風機をかけながら、汗を拭き拭き仕事をしていました。昼食には、よく近くの登亭に安い鰻丼を食べに行きました。加嶋高館ビルの裏隣はトクホン・ビルで、どういういきさつであったか想い出せませんが、貼り薬のトクホンを格安に頒けてもらえるようになり、時々家に持ち帰ってきたことを、最近家内に言われて想い出しました。

室町3丁目時代の所沢法律事務所にとって特筆すべきことは、一つは所沢さんが東京都労働委員会の公益委員に任命されたことであり、もう一つは1956年にはじめて司法修習生が実務修習のために配属され、翌年二人目の修習生として福井さんがやってきたことです。また、大野さんの結婚もその一つです。それらのことについては、次の号でお話したいと思います。

[2000年6月執筆]
(つづく)