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ホーム > 事務所紹介 > 長島安治弁護士の手記 > 第8回 室町3丁目時代(その二)

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第8回 室町3丁目時代(その二)

前回に書きましたように、福井さんが所沢法律事務所に加わったのは、この時代です。初めは修習生として来られたのですが、その仕事に対する熱意と馬力、それにカラッと明るく男らしい人柄に、所沢さんをはじめ私達は一も二もなく惚れ込んで、翌年福井さんが研修を終えるのを待って、入って頂いたのです。事務所に二人いた書生(当時はそう呼んでいました)も福井さんに敬服していました。今でも覚えていますが、そのうちの一人が、「福井先生には頭が下がります。書類の探しものをしていたときに、福井先生は落ち着いて心当りの書類を一枚一枚見落としがないように点検されるのです。ですから私達と違って、一旦見終った書類を再び点検しなければならないということがないのです。」と言っていました。福井さんの回想記を次に掲げます。

所沢法律事務所いそ弁時代

私は1958年(昭和33年)4月から所沢法律事務所のいそ弁となり、弁護士生活の第一歩を踏み出した。このようになったのは1956年4月に10期の司法修習生となり、翌年の4月から7月まで同事務所で実務修習をした縁である。

当時の司法研修所は現在の紀尾井町ビルの敷地と文春ビルの隣にある細長い司法研修所分室の敷地を併せた所にあり、バラックの本館と教室が数棟建てられていた。周りには現在建っているようなホテルや文春ビルもなかったし、地下鉄も開通していなかった。所沢事務所は既に蠣殻町から日本橋室町3丁目の三共製薬農薬部のビルに移っており、所沢、長島、大野の三弁護士と三名の事務職員が勤務していたと思う。当時は修習生を受け入れる法律事務所も限られていたようで、所沢事務所でも、同期の藤井弁護士が初めて私の修習する前年の8月から12月まで配属され、4ヶ月後に又私が配属されることになった。なにしろ40年以上前のことであるから、所沢事務所での修習期間中およびいそ弁になった初期のころの事務所の状況や関係した事件の記憶は曖昧で、以下にのべる幾つかの事実の時期の前後関係は正確でないかも知れない。所沢事務所の内部は所沢弁護士個室、長島、大野、私の三人部屋、応接室と事務室に分かれており当時とすれば場所も施設もよい方ではなかったかと思うが、暑い夏に窓を開け扇風機をつけて仕事をするのは大変であった。しかし当時、冷房のあるビルなどというのは滅多になく、配属された裁判所の部長が自民党本部のあった砂防会館の各部屋にクーラーがついているのは随分贅沢なものであると話をしていたことを覚えている。

事務所で仕事をし始めた初期の頃には、所沢弁護士が中小企業協同組合法を研究し論文なども書いていた関係から中小企業協同組合関係のいくつかの事件に関係した。その中には浅草の露天商の組合、築地の魚河岸の仲買人の組合、自由が丘の商店街の組合、珍しいのでは京都祇園の乙区のお茶屋の組合などの事件があり、また、刑事事件としても中小企業が集まって業種毎に設立した健康保険組合の理事による東京都の課長に対する贈賄事件、防衛庁に対する贈賄事件その他があった。この様な事件は大野弁護士を補佐したり二人で分担したりして処理した。

長島弁護士は研修所五期生で既に数年の実務を経ており、同弁護士固有の有力な依頼者の事件に専念しており、本訴及び仮差押、仮処分等の裁判事件も少なくなく、フォルクスワーゲンのカブトムシで東奔西走し、所沢弁護士よりも羽振りが良かったように思われた。(なおこのカブトムシは事務所脇の路上を駐車場にしていたが当時は問題にされなかったようである。)

この頃長島弁護士が事件屋の介入を排除する為、妨害排除の仮処分命令を得て迅速果敢に早朝、建物収去土地明渡しを断行した後、建物内に寝泊りしていた事件屋から高価な品物がなくなったなどと言って訴えられたことがあった。勿論訴えられたのは依頼者であるが、事件屋の攻撃相手は長島弁護士であった。これに対して同弁護士は自ら証人に立ち大野弁護士が尋問し、事件屋の主張する日時場所において、事件屋の言うような事実は無かったということを立証するために、毎日の出来事を克明に記録していたデイリーレコードを書証として提出して反論し、完全勝訴したことがあった。近年になって判ったことであるが、この事件を担当した裁判長は後に東京地裁の労働部の裁判長として、組合のリボン闘争について「他人の褌で相撲をとる類の違法な便乗行為である」との有名な判決を書いた裁判官で、退官後経営法曹のメンバーとなった人であるが、この事件のことをよく憶えており、日本にもこのような弁護士が出て来たかと強い感銘をうけたと長島弁護士の事件処理のやり方を絶賛していた。

長島弁護士はスマートで一見とっつきにくいが、実は大変面倒見が良く食通で、大野弁護士も私もよく珍しい小料理屋などでご馳走になった。その中には古い歌舞伎の台詞に名前が出てくるという「しゃも」料理屋や、江戸時代から続いているさくら鍋や猪鍋屋、元は姉妹で御座敷に出ていたという美人のおかみさんが出していた割烹店などがあった。度々長島弁護士に散財をさせて恐縮していたが、いつももてたのは同弁護士であったからあまり遠慮することはなかったのかも知れない。大野弁護士が結婚されたのはこの頃で、随分度々見合いをされたと聞いたように記憶している。所沢弁護士は料亭などでのおつきあいはなかなかまめで、刑事事件の依頼者などのお声がかりで、渋谷、築地、九段などの料亭に招かれ私もよく御相伴をさせて貰った。時には太鼓持ちが呼ばれたこともあった。なにしろ立派なお座敷に座って若先生などと言われて酌をして貰ったのはその頃が初めてであったから、ついつい有頂天になって飲みすぎ、終電車で小田急線の狛江から相模大野まで乗りすごしたことが度々あった。そのうち1959年頃から林野庁その他の労働事件が忙しくなって来て、大野弁護士も私も概ねこれらの事件処理にかかりきりになった。

[2000年8月執筆]
(つづく)